カテゴリ:プレバト俳句を添削ごと査定?!
清秋や海にマンタといるしじま 月白や温泉にいる吾と腫瘍 山の宿昭和のままの虫の闇 ひとすじの秋水ひとり旅とどめ 退職金一括金秋の四季島 秋麗作家と話す陶器市
9月19日のプレバト俳句。 先週にひきつづき金秋戦予選。 Cブロックのお題は「一人旅」です。 ◇ 犬山紙子。 月白や 温泉にいる吾と腫瘍 月白や 旅の湯に吾あと吾わが腫瘍(添削後) この季語の選択はすごい…。 月の出の前に明るく白んだ東の空。 一般的には、 名月を待ちわびる期待の季語ですが、 この句の場合は、 快癒への希望と不安がないまぜの心情で、 乳房やお湯の白の暗示とも思えます。 場面全体が乳白色になるように見える。 中七の「いる」は、 たしかに意味のない動詞だけど、 「いる」の代わりに「入いる」を使って、 月白や 温泉に入る吾と腫瘍 と書けば、いくぶん映像的かもしれません。 なお、 「旅の湯」と書けば兼題に近づきますが、 「温泉」と書けば湯治のニュアンスが出る。 元気で何よりです。
◇ キスマイ千賀。 清秋や 海にマンタといるしじま これが1位でしたが… 原句は、 前段が「海上」で、 後段が「海中」の取り合わせに見える。 さすがに海中が清秋ってことはないでしょ。 たとえば、 清秋の海や マンタのいるしじま と書けば、 全体が「海上」の場面になりますが、 全体を「海中」の場面にしたいのなら、 清秋の海にマンタといるしじま と書くのが正解じゃないかしら? ちなみに、 「~と~にいる」という構造は、 犬山紙子の句と同じですね。 作者がそこに「いる」のは当たり前だけど、 「~といる」のは特殊なのかもしれません。 追記: 俳句では通常、 一人称の「私」は省略できる主語だし、 be動詞の「いる」「ある」は省略できる述語ですが、 かりに中七・下五で、 「私はしじまの海にいる」とか、 「しじまの海にいる私」とか書くとすれば、 それは主たる描写対象が私(作者自身)であり、 その私が「いる」こと以外に何もしてない場合です。 …ただし、その場合でも、 「私」と「いる」の両方が必要かどうかは微妙。 たとえば千賀の句は、 「しじまの海にマンタと吾」と書けば、 述語の「いる」は不要になるはずだし、 逆に、犬山紙子の句は、 「胸の腫瘍といる湯舟」のように書けば、 主語の「吾」は不要かもしれません。 ◇ 武田鉄矢。 山の宿やど 昭和のままの虫の闇 山宿やましゅくや 昭和の色の虫の闇(添削後) 前回も「昭和の子」だったし、 武田鉄矢らしい作風ではあります。 原句も悪くないと思いますが、 「昭和だなあ」と詠みたい気持ちを、 説明でなく映像にするのは難しいよね。 ◇ 清水アナ。 秋麗あきうらら 作家と話す陶器市 季語をふくめて、 内容にひねりがない気はするけど、 さほど悪い出来じゃないし、 平場なら才能アリでもいいのでは? ためしに、 歳近き作家 九月の陶器市 としてみました。
◇ 中田喜子。 ひとすじの秋水ひとり旅とどめ ひとすじの秋水 ひとり旅の果て(添削後) 原句は一句一章で、 《ひとすじの秋水(が)ひとり旅(を)とどめた》 という内容なのだけど、 最後の「とどめ」の意味が不明瞭。 先生は、 「風景の美しさ見て、旅を心にとどめた」 と解釈したようですが、 わたしは、 「風景の美しさが自分をその場にとどめた」 と解釈しました。 …しかし、作者によれば、 「不吉な予兆を感じて旅をやめた」 という意味らしい。 ポジティブな意味の季語を、 ネガティブな意味で用いた是非も問われますが、 かりに作者の意図に沿うのなら、 ひとすじの秋水 旅先の不吉 秋水のひとすじ旅を遮れり とでも書くしかありませんね。 ◇ パックン。 退職金一括 金秋の四季島 退職の旅よ 金秋の四季島(添削後) 原句は、 前段が手段の説明だし、 前後が因果関係になってます。 退職金で「金秋」ってのも卑しいので、 (金カネの秋みたいに見える!) せめて「錦秋」と書くほうが上品かもしれません。 ▽過去の記事はこちら https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.25 17:35:34
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