春<20>
廊下から、ゆっくりとこちらへと近づいてくる足音が聞こえてきた。
その足音は庄助と晋吉が居る部屋の前でピタリと止まって、その人影はこう告げた。
”ご隠居さ~ん、先生のご診察は済みましたか?”
”おう、三ちゃんか。丁度今、終わったところよ、何か用かい?”
っと庄助が応えた。
”旦那さんから取り急ぎ、本日入ったお品をご隠居さんにお目通し願って、
お値付けしてもらうよう申し付けられました。”
”そうかい、お入り”
三郎という名のこの店の番頭が、いかにも客受けするだろう
っと思われる笑みで、顔を皺だらけにして入ってきた。
”若先生、こんにちは。ご診察中お邪魔して御免なさいよ”
晋吉はこれまた、己よりも年上の人に頭を深々と下げられて
”いえ、診察はもう済みましたから。”
っと早急に言葉を返し、己がこの場に長居してしまったことで、
店の仕事が滞ってしまったのではないか、っと恐縮したのだった。
”早速ですが・・・若先生、御前をすんません。ご隠居さん、お品はこれに御座います。
っといって反物を庄助の手に恭しく差し出したのだった。
庄助はその品を受け取ると、老人の手とは思われないような、
優雅で、流れるような手つきで、素早くサッと生地を広げたのだった。
”ほーーーお、これほどまでに手の込んだ品はなかなか見られぬのう。
なんとまあ豪華な柄じゃ。
桜色した生地に、春霞を想わせる線、そして春の花々を
赤・紫・白で、青葉とともに、柄の縁には金糸が使われておる・・・”
庄助の反物を扱う手の動き、晋吉にはそれが腰を痛めた、老人の手とは思えないような、
舞人の手指かと見まごうような、庄助の手の動きに目を奪われたのだが、
その手から溢れおちるように眼前に広がっていった
美しい呉服生地に、一瞬にして目を瞠り、心奪われてしまったのだった。
母や、姉が大騒ぎして、着物を新調することは晋吉も知ってはいたが、
彼はこれまで、そういう煌びやかなものには全く興味を抱いたことはなかったのだった。
しかし今、彼は、己が目の前に突如広がった桜色の世界に、
春 を見、春 を想ったのだった。
そんな晋吉の様子を見て庄助は
”おや、まあ、若先生は医学一筋の大層な堅物ときいておったし、
わしもこの目でみて、先生は噂に違わぬ人物じゃとおもっとったが、
これは意外じゃ、この美しい布地を纏わせて、
傍らに置いておきたいと想うお人がおるんかや・・・”
っと含み笑いで尋ねたのだった。
晋吉は自分の心を見透かされて、ただただ、体を固くし、項垂れて、
気づかれぬように、見られぬようにと思えば思うほど、
血が昇って火照っていく、己が面を隠していたのだった。
”先生は頭だけいろんなものを詰め込んでるお人とは違いますやな。
わしゃ、ますます若先生が気に入りましたぞ。”
っと炒った豆が跳ね出すようにカッカッカっと、
心底気持ちよさそうに、庄助は笑ったのだった。
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