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2006年09月04日
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カテゴリ:新田義貞あれこれ
小黒丸城址(黒丸城址)

藤島の戦い(8月29日の日記参照)に出てくる北朝方の斯波高経の本拠地、黒丸城(小黒丸城)は、灯明寺畷新田義貞戦没伝承地(8月28日の日記参照)から北西へ5キロぐらいの所にありました。現在はその場所(福井市黒丸町)に小黒丸城址と刻まれた石碑が建っているだけですが、当時の黒丸城(小黒丸城)は、九頭竜、日野の二大川が合流する所にあり、海運交通の重要な拠点だったことから、石碑に刻まれた説明では、高経が築いた足羽7城(諸説あり=8月31日の日記参照)の中でも随一の堅固を誇っていたと伝えています。

斯波軍の巧妙な防衛策に対し、義貞軍大がかりな攻撃準備

太平記を要約すると
府中(越前市)での戦いに敗れた斯波高経は黒丸城(小黒丸城)に追い込まれた。新田義貞軍3万騎に対し斯波軍は300余騎にすぎない。そこで、義貞軍の攻撃に備え、高経は討死覚悟で城の防衛策を考えた。泥田に馬の足も立たないほどの水を入れ、路には落とし穴を作り、橋をはずして溝を深くし、その中に7つの城(砦)をこしらえた。敵が攻めてきた時は、互いに力を合わせて敵の後ろへ回り包囲して攻めるという巧妙な防衛策だった。一方、義貞軍は黒丸城(小黒丸城)を攻めるのに際して、堀や溝を埋めるために、埋め草3万余荷、3千帖もの盾を準備した、などと伝えられています。義貞軍は黒丸城(小黒丸城)攻撃に際し、かなり大がかりな準備をしていたようです。

急がれる黒丸城の遺構確定作業=識者の声

ただ、黒丸城(小黒丸城)の遺構は現状では確認されていません。これについて福井市史は「黒丸城(小黒丸城)は以後にも朝倉氏が居城し、一乗谷入場まで使用されたとされていることから、なんらかの遺構の痕跡を残していることは十分考えられ、それらの位置、範囲などを確定される作業が急がれる」としています。

戦国武将の朝倉氏、越前守護を機に、居城を黒丸から一乗谷へ

斯波高経の家臣・朝倉広景は、新田義貞らとの戦いの後、黒丸(小黒丸)城主になりましたが、これが越前朝倉氏の起こり(1333年)です。それから6代約130年間はこの黒丸城(小黒丸城)を居城にしていたと伝えられています。そして、文明3年(1471)、朝倉孝景が越前守護になったのを機に、居城を黒丸城(小黒丸城)から一乗谷へ。それから信長に滅ぼされるまでの5代103年間、一乗谷は朝倉氏の居城として、越前の政治、文化の中心として栄えました。一乗谷城下町跡(国の特別史跡・朝倉氏遺跡=日記のページ参照)は、新田義貞戦没伝説地から南東へ14キロぐらい。1971年(昭和46年)、国の特別史跡に指定され、現在も史跡公園として発掘・整備が進められています。






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最終更新日  2006年09月16日 11時24分51秒
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