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カテゴリ:新田義貞あれこれ
藤島の戦い(8月29日の日記参照)に出てくる北朝方の斯波高経の本拠地、黒丸城(小黒丸城)は、灯明寺畷新田義貞戦没伝承地(8月28日の日記参照)から北西へ5キロぐらいの所にありました。現在はその場所(福井市黒丸町)に小黒丸城址と刻まれた石碑が建っているだけですが、当時の黒丸城(小黒丸城)は、九頭竜、日野の二大川が合流する所にあり、海運交通の重要な拠点だったことから、石碑に刻まれた説明では、高経が築いた足羽7城(諸説あり=8月31日の日記参照)の中でも随一の堅固を誇っていたと伝えています。 太平記を要約すると、 急がれる黒丸城の遺構確定作業=識者の声 ただ、黒丸城(小黒丸城)の遺構は現状では確認されていません。これについて福井市史は「黒丸城(小黒丸城)は以後にも朝倉氏が居城し、一乗谷入場まで使用されたとされていることから、なんらかの遺構の痕跡を残していることは十分考えられ、それらの位置、範囲などを確定される作業が急がれる」としています。 戦国武将の朝倉氏、越前守護を機に、居城を黒丸から一乗谷へ 斯波高経の家臣・朝倉広景は、新田義貞らとの戦いの後、黒丸(小黒丸)城主になりましたが、これが越前朝倉氏の起こり(1333年)です。それから6代約130年間はこの黒丸城(小黒丸城)を居城にしていたと伝えられています。そして、文明3年(1471)、朝倉孝景が越前守護になったのを機に、居城を黒丸城(小黒丸城)から一乗谷へ。それから信長に滅ぼされるまでの5代103年間、一乗谷は朝倉氏の居城として、越前の政治、文化の中心として栄えました。一乗谷城下町跡(国の特別史跡・朝倉氏遺跡=日記のページ参照)は、新田義貞戦没伝説地から南東へ14キロぐらい。1971年(昭和46年)、国の特別史跡に指定され、現在も史跡公園として発掘・整備が進められています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月16日 11時24分51秒
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