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カテゴリ:新田義貞あれこれ
藤島の戦い(8月29日の日記参照)に出てくる藤島城は、灯明寺畷新田義貞戦没伝承地(8月28日の日記参照)から東へ7キロぐらいの所にありました。現在はその場所に、藤島城址(現福井市藤島町、西超勝寺)の石碑が建っています。義貞は、灯明寺(福井市灯明寺の白山神社の地)の本陣からあぜ道伝いに藤島城へ偵察に向かう途中、1キロ余り行ったところの同伝説地で戦没したと伝えられています。
藤島城、足羽7城の一つに数える説(諸説あり8月31日の日記参照) 案内板によると、藤島城を南朝方の足羽7城の一つに数える説もある。現在、北側に残る土塁の一部のほかは、当時の面影をとどめないが、地籍図では北側、東側に土塁、堀があったことが認められる、などと伝えています。 藤島城に立て篭もった平泉寺衆徒、命がけの防衛 藤島城の様子について太平記は、平泉寺の衆徒の立て篭もる藤島城、意外にも浮き足立って、すぐにも落ちるように見えた。数万の寄せ手はこれを機に、向かい城造りをそのままにしておいて攻撃した。衆徒も敗色濃く見えるが、とても逃れられないと知ると、身命を捨てて攻撃を防いだ。官軍が櫓を落として攻め入ろうとすれば、衆徒は材木を転がして落とし、衆徒が橋を渡って打って出てくると、寄せての官軍は槍先を揃えて突き落とした。押しつ押されつの戦いに、日はすでに暮れた。この頃、大将義貞は、灯明寺の前に控えて負傷者の様子を見ていたが、藤島の戦いに不安を感じて、50騎の手勢を従えて藤島城へ様子をみに向かった、などと概ねこのような内容で伝えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月16日 11時23分30秒
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