新田義貞のものとされる兜(国重文)は、江戸時代の初期、灯明寺畷(福井市新田塚)の泥田で近くの農民が発見し、それを福井藩士の井原番右衛門が新田義貞のものと鑑定しました。鑑定結果は、唐草文の銀象嵌(ぎんぞうがん)のある四二間の筋線の間に、宮中を守護するという三十番の神号が沈刻してあったこと、暦応元年(1338)閏7月2日、兜が発見された付近で義貞が戦死(8月28日の日記参照)したと伝えられていること、などが決め手になったと伝えられています。この兜は現在、新田義貞を祭神とする藤島神社(福井市毛矢)に保管されています。
兜発見から鑑定までの経緯について、わが町の歴史・福井は
明暦2年(1656)、近くの農民、嘉兵衛が灯明寺畷の水田で古い兜を発見し、家に持ち帰った。嘉兵衛の老母はこれを日常の績笥(おごけ)として使っていたが、たまたま福井藩士の井原番右衛門が鷹帰りの帰途、嘉兵衛の家で休憩した時、この異常な績笥に注目し、これをゆずりうけて家に持ち帰った。そして、朝晩磨いていたところ、唐草文の銀象嵌(ぎんぞうがん)のある四二間の筋線の間に、宮中守護の三十番神号が沈刻してあることが分かった。番右衛門は、まさしくこれは名工・明珍の作で、しかも新田義貞の兜には三十番神号を刻んであったという伝承があることを想い起こし、暦応元年(1338)閏7月2日、この付近の戦いで戦死した義貞のものと鑑定した、などと概ねこのような内容で伝えています。
新田義貞のこの兜について藤島神社の説明
「この兜は、灯明寺畷の水田中から明暦年間(1655~58)に発掘され、新田義貞所用として福井藩主松平家伝来した。四十二間筋兜で、筋間に宮中を守護するという三十番神の神号と眉庇に銀象眼で唐草文が施され、鉢裏に元応元年(1319)8月、相模国□□の刻印がある。鉄製銀象眼兜」