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2006年09月21日
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カテゴリ:新田義貞あれこれ

 

南北朝時代、金ヶ崎城の本丸跡といわれている=金ヶ崎最高地

[写真説明]

「三方が海に囲まれた天然の要害地、金ヶ崎の最高地(海抜86m)で、南北朝時代の金ヶ崎城本丸跡といわれています。戦国時代の朝倉氏支城だった頃は、通称月見御殿とも呼ばれ、武将が月見をしたと伝えられています」


脚光浴びる金ヶ崎


敦賀の金ヶ崎は、NHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公、山内一豊が出世の第一歩を踏み出したところ2月22日の日記参照)といわれ、放映以来たくさんの観光客が訪れているそうですが、ここは南北朝時代だけでなく、戦国時代にも「金ヶ崎の戦い」があったところです。織田信長が朝倉氏の支城、金ヶ崎城を攻めた時、浅井・朝倉両軍に挟まれ窮地に陥るものの、お市の方が、小豆を入れ両端を紐で縛った袋を届けて挟み撃ちを知らせ、信長の窮地を救ったという伝説は、この金ヶ崎での出来事です。

灯明寺畷で戦没する2年ほど前、新田義貞、金ヶ崎城に入城

ところで、灯明寺畷(福井市新田塚)の藤島の戦い(8月29日の日記参照)で戦没した新田義貞ですが、その2年ほど前には、金ヶ崎城にいました。義貞は延元元年(1336)10月、南朝の後醍醐天皇の命を受けて、恒良(つねなが)親王と第一皇子の尊敬(たかなが)親王を奉じて越前に下り、敦賀・気比神宮宮司の気比氏治らの出迎えを受けて金ヶ崎城に入城しました。そこは義貞戦没伝承地から南へ約60キロのところにあります。

新田軍の越前下向、足利方の糧道ふさぐ狙い

新田義貞越前下向の狙いについて福井県の歴史散歩は、南朝方が湊川合戦(兵庫県)で足利尊氏に破れると、後醍醐天皇は南朝方の勢力回復を図るため、、敦賀津を拠点に日本海の制海権を握って、北陸山陰道から足利方への糧道をふさぐことを考えた。そして、延元元年(1336)、新天皇の恒良親王と、皇子の尊敬親王を奉じて、北国に勢力をもつ新田義貞ら一族武将1000騎を敦賀に下向させた、としています。

足利方の総攻撃受け、極限状態の中で金ヶ崎城落城

福井県の歴史散歩、敦賀市史などによると
金ヶ崎城に入城した義貞軍は、その後約半年間篭城、北朝方の足利軍と戦っていたのですが、翌二年3月6日に足利方の総攻撃を受け、遂に金ヶ崎城は落城しました。この戦いで尊良親王と、義貞の嫡子・新田義顕が自害したほか、将士300余名が亡くなり、恒良親王も逃げる途中捕らえられて京都へ送られました。

義貞、落城直前に杣山城へ外出、難逃れる

ただ義貞らは、金ヶ崎城落城1か月ほど前、兵糧を確保するため城を抜け出し、約20キロ北東にある杣山城(南越前町)に出かけていたことから、難を逃れました。杣山城に出かけたことについては、金ヶ崎城の四方が足利方の大軍に囲まれていたことから、杣山城から打って出て、後方から足利方を撹乱することを考えていたともいわれています。

金ヶ崎城落城後、体制を立て直した義貞軍は、、府中(越前市)を攻め落とし、北朝方の越前守護・斯波高経を足羽城(諸説あり8月31日の日記参照)に追い込みました。そして、義貞が戦没した藤島の戦い(8月29日の日記参照)へと続くのです。

恋心を”桜の小枝”に託す「花換祭」


例年桜の咲く頃、恋心を『桜の小枝』に託す「花換祭」=金ヶ崎宮

金崎宮では、例年桜の咲く頃、恋心を『桜の小枝』に託す「花換祭」(4月12日の日記参照)が行われ、大勢の花見客で賑います。金ヶ崎に関心のある方は、この頃に、金ヶ崎古戦場巡りを計画されてはいかがでしょうか






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最終更新日  2006年09月26日 09時10分36秒
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