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カテゴリ:新田義貞あれこれ
[写真説明] 「三方が海に囲まれた天然の要害地、金ヶ崎の最高地(海抜86m)で、南北朝時代の金ヶ崎城本丸跡といわれています。戦国時代の朝倉氏支城だった頃は、通称月見御殿とも呼ばれ、武将が月見をしたと伝えられています」
灯明寺畷で戦没する2年ほど前、新田義貞、金ヶ崎城に入城 新田軍の越前下向、足利方の糧道ふさぐ狙い 新田義貞越前下向の狙いについて福井県の歴史散歩は、南朝方が湊川合戦(兵庫県)で足利尊氏に破れると、後醍醐天皇は南朝方の勢力回復を図るため、、敦賀津を拠点に日本海の制海権を握って、北陸山陰道から足利方への糧道をふさぐことを考えた。そして、延元元年(1336)、新天皇の恒良親王と、皇子の尊敬親王を奉じて、北国に勢力をもつ新田義貞ら一族武将1000騎を敦賀に下向させた、としています。 足利方の総攻撃受け、極限状態の中で金ヶ崎城落城 福井県の歴史散歩、敦賀市史などによると、 義貞、落城直前に杣山城へ外出、難逃れる ただ義貞らは、金ヶ崎城落城1か月ほど前、兵糧を確保するため城を抜け出し、約20キロ北東にある杣山城(南越前町)に出かけていたことから、難を逃れました。杣山城に出かけたことについては、金ヶ崎城の四方が足利方の大軍に囲まれていたことから、杣山城から打って出て、後方から足利方を撹乱することを考えていたともいわれています。 金ヶ崎城落城後、体制を立て直した義貞軍は、、府中(越前市)を攻め落とし、北朝方の越前守護・斯波高経を足羽城(諸説あり8月31日の日記参照)に追い込みました。そして、義貞が戦没した藤島の戦い(8月29日の日記参照)へと続くのです。 例年桜の咲く頃、恋心を『桜の小枝』に託す「花換祭」=金ヶ崎宮 金崎宮では、例年桜の咲く頃、恋心を『桜の小枝』に託す「花換祭」(4月12日の日記参照)が行われ、大勢の花見客で賑います。金ヶ崎に関心のある方は、この頃に、金ヶ崎古戦場巡りを計画されてはいかがでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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