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2006年11月16日
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カテゴリ:新田義貞あれこれ

新田義貞は、第56代清和天皇を祖とした一族・清和源氏の流れで、八幡太郎源義家の孫に当たる初代新田氏・源義重(新田義重)から数えて7代目の子孫です。源義重は新田荘(群馬県太田市)に住むようになってから新田氏を名乗り、義貞は新田氏の嫡男として生まれました。一方足利尊氏は、源義重(新田義重)の弟・源義康(足利義康)を初代足利氏とする同族ですが、家格でみると、新田氏(源義重)が長男で次男の足利氏(源義康)より家柄が高かったこともあって、鎌倉幕府において新田氏が足利氏より冷遇されたことに対し、義貞は不満を持っていたともいわれています。

このような中で、天皇と公家を中心とする建武の新政を目指す後醍醐天皇から、鎌倉幕府追討の綸旨を受けたのですが、義貞はこれを名誉挽回の絶好のチャンスと捉えて、元弘3年(1333)に挙兵を決意したようです。義貞33歳の時です。義貞は密かに朝廷の命を受けて突然挙兵し、鎌倉に攻め入ったともいわれています。そして激闘の末、鎌倉幕府を攻め滅ぼしました。一方足利尊氏はこの頃、京都の六波羅探題を攻め滅ぼしました。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を推進しました。しかし、足利尊氏が武家政治再興を企てて建武3年(1336)に南朝の後醍醐天皇を吉野(奈良県)に追い、別に北朝の光明(こうみよう)天皇を擁立したことから、約60年続く南北朝動乱の時代に突入しました。その後醍醐天皇は尊氏と講和する一方で、皇子を各地に下向させて反撃の拠点をつくる戦略を立てたと伝えられています。その一つとして新田軍勢は延元元年(1336)10月、南朝の後醍醐天皇の命を受けて、恒良(つねなが)親王と第一皇子の尊敬(たかなが)親王を奉じて越前に下向し、敦賀・気比神宮宮司の気比氏治らの出迎えを受けて金ヶ崎城に入城しました。

義貞が北国方面に下向することになったことについては、北国が新田一族の勢力圏だったことや、敦賀・気比神宮が早くから後醍醐天皇と深い関係をもっていたことが影響したと考えられています。このようなことから、義貞が北国経営を目指していたとの見方もあるようです。

そして敦賀・金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の新田義貞軍9月21日の日記参照)へと続きます。






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最終更新日  2006年11月17日 07時39分31秒
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