カテゴリ:近代短歌の沃野
斎藤茂吉(さいとう・もきち)
とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるきみづ恋ひにけり 赤光のなかの歩みはひそか夜の細きかほそきこころにか似む しろがねの雪降る山に人かよふ細ほそとして路見ゆるかな 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 自殺せし狂者の棺のうしろより眩暈して行けり道に入日あかく にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり しんしんと雪降りし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか 死にたまふ母 みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる ひた走るわが道暗ししんしんと怺へかねたるわが道暗し 死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる 母が目をしまし離れ来て目守りたりあな悲しもよ蚕のねむり 我が母よ死にたまひゆく我が母よ生まし乳足らひし母よ のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを 第一歌集『赤光』(大正2年・1913) 註 かりようびんが(かりょうびんが):迦陵頻伽。想像上の鳥。雪山(せっせん)または極楽浄土に棲み、美しい声で鳴くという。上半身は美女、下半身は鳥の姿をしており、その美声を仏陀の声の形容とする。 わたくし児:私生児、非嫡出子、落胤、落し子。 一首目、のちに客観写生を標榜した作者としては極めて異色な、なかなかシュールで難解な一首である。よく分からないのだが、「田螺」とは、もしかすると作者自身の隠喩(メタファー)なのだろうか。もしそうだとすると、自分は迦陵頻伽の落し子だと言っているのか。満々たる自恃と野心の披歴なのか。 玄鳥:燕。 足乳根の:「母」にかかる枕詞(まくらことば)。 *NHK連続テレビ小説(朝ドラ)『ブギウギ』(16日放送分)で、主人公・福来スズ子(趣里)の母親(水川あさみ)が亡くなる嫋々たる名場面を見て、ふとこの近代短歌の傑作を思い出した。 斎藤茂吉歌集 岩波文庫 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年11月28日 07時32分46秒
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