カテゴリ:日本映画人列伝
ハロー! 映画狂のモイラでございます。
今日は、東宝の敏腕プロデューサーで、あのゴジラの生みの親とも言える 田中友幸(たなか ともゆき)氏について、ちょっと駄文を書かせて下さい。 「おいおい、ゴジラの生みの親は、かの円谷英二大先生だろ⁈」 という特撮ファンの声も聞かれますが、 あの「ゴジラ」(1954年)の企画を最初に練ったのは、 実は田中友幸氏なんですよね。 友幸氏は1910年(明治43年)4月26日に、大阪府柏原市の軍人一家の長男として産声をあげ、 1935年に関西大学経済学部を卒業し、 1940年に大宝映画に入社、その翌年に東宝映画株式会社に転ずるのですが、 太平洋戦争敗戦後、1947年に起こったいわゆる東宝争議で、東宝を退社、 映画芸術協会に身を置くのですが、それから5年後にまた東宝に戻り、 敏腕プロデューサーとして、名をはせるんですよね。 そして……1954年(昭和29年)に、ジャーン!! この超名作を世に送り出すのです! 「ゴジラ」は、封切りと同時に空前の大ヒットとなり、 たとえば渋谷東宝に並ぶ観客の列は、なんと道玄坂にまで伸び、 封切り初日は東京都内だけで、約15万人の動員を果たしたのです! あまりの大入りに、当時はまだ東宝の一介の社員だった友幸氏が自ら 渋谷東宝や日劇でもぎりを手伝ったそうな…… そして動員数は961万人にも達し、国民の10人に1人は「ゴジラ」を観たという大大大記録を打ち出し、 当時、傾いていた東宝の屋台骨を一気に立て直したんですよね! しかし、この超大ヒットにも関わらず、当時の「ゴジラ」の評価は映画評論家の間では低く、 「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と、酷評の嵐だったんです。 それでも、当時の新進気鋭の小説家・三島由紀夫は、 「原水爆の恐怖がよく出ていて、着想も素晴らしい映画だ」と、絶賛し、 あの小津安二郎監督、漫画家の手塚治虫、水木しげる、淀川長治先生方も、 「ゴジラ」を高く評価したのです! この「ゴジラ」がやがて海外でも絶賛され、田中友幸氏の名は、 特撮の神様・円谷英二大先生とともに、世界に知れ渡ったのは、あまりにも有名です。 モイラは日藝の学生の時、よくオールナイトでゴジラシリーズを観ましたが、 スクリーンに「製作・田中友幸」というタイトルがバーンと出ると、 特撮ファンの観客は全員、盛大な拍手を送っていました。 (もちろん「特撮監督・円谷英二」のタイトルが出た時は、もう大拍手の渦でしたよ……) この「ゴジラ」以降、友幸氏は東宝の看板シリーズとなるSF超大作や、戦争映画、 世界のクロサワや、岡本喜八監督作品などもプロデュースし、 東宝の黄金時代を築くのです! 友幸氏の人柄は意外にも(?)温厚でお茶目で、 試写でまずいシーンが流れると、臨席の監督の手をつねるようなことがあったそうです。 また、”田中牛五郎”の異名があるくらいの粘り屋でもあったそうな…… そして何より、大変な勉強家で、全紙の新聞を購読し、週刊誌も山のようにとっては、 次々と読破し、映画で役に立ちそうな記事をすべて切り取り、持ち歩いていたと、 モイラの今は亡き映画人だった父は、よく言っていました。 (モイラの亡父は二度ほど、田中友幸氏と仕事をしたことがあるのです) こうして田中友幸氏は、1997年(平成9年)に86歳で脳梗塞で亡くなるまで、 切れ目なく名作映画を世に送り出したんですよね。 そして、翌1998年(平成10年)に公開された「GODZILLA」のエンドクレジットには、 「田中友幸の思い出に捧ぐ」 と、記載されております。 東宝社員時代・契約プロデューサー時代 東宝映像社長時代 東宝映画社長時代 東宝映画会長時代 東宝映画相談役時代 おっと、こちらもお忘れなく……! にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[日本映画人列伝] カテゴリの最新記事
|
|