落語「さ」の40:皿屋敷(さらやしき)
【粗筋】 番町にある、ひと呼んで皿屋敷。青山鉄山が女中のお菊に言い寄るが、お菊は言うことを聞かない。十枚ある皿を一枚隠して、これをお菊のせいにして責める。お菊が何度皿を数えても九枚しかない。とうとう皿を数えながら殺され、死骸は井戸に投げ込まれた。その夜からお菊の幽霊が出て皿を数えたという。 さて、空き家となった皿屋敷の古井戸から、毎晩お菊の幽霊が現れて皿を数え、九枚まで数えるのを見ると死ぬという噂。物好きな奴が七枚あたりまで見て逃げ帰ったが、なにしろお菊の幽霊がすこぶる美人だったことから、評判は日に日に高まり、皿屋敷に集まる人は増える一方。連日の興行で疲れが見えるお菊さん、愛想よく「一枚、二枚……」と皿を数え始め、例によって7枚あたりで逃げ出すが、さあ大変、客が多すぎて逃げられない。「八枚、九枚、十枚、十一枚……」「おいおい、ちょっと待て。おかしいぜ」「十七枚、十八枚」「やいッ、何で十八枚も数えるんだ」「はい、風邪ぎみなので、二日分数えておいて明日の晩はお休みにします」【成立】 上方落語。1837(天保8)年『落噺仕立おろし』の「皿屋敷」など。嘉永年間の『新板おとしばなし』の「皿屋敷お菊が幽霊」がほぼそのまま。1807年(文化4年)の噺家喜久亭壽暁のネタ帳『滑稽集』に「さらやしき明日休」とある。上方では「播州皿屋敷」東京にも移植されて「番町皿屋敷」「番町皿屋敷 青山播磨」、浄瑠璃の人物を取って「青山鉄山」とも。 連夜の興行で疲れ、不機嫌になったお菊が、骨休みのため明日は休みにするというのが本来の落ち。「明日はお盆で休みます」という落ちもあるが、お盆は藪入りで、幽霊だけに面白い。いずれにしても現在はピンとこないので、粗筋のものしか演じられていない。【一言】 お菊が、十枚の皿の内、一枚を鉄山のために隠されて、井戸へつるされ、斬り殺されたという……これは、実話か、こしらえものか、よく分かりませんが、小説、狂言などにもさかんに書かれて、かなり有名なものでござします。それから、この噺をこしらえたものでしょう。(三遊亭圓生(6))○ 『皿屋敷』のお菊さんが観客に「なんで皿の数ぎょうさんよんだんや!」言うて責められた時、「ポンポンポンポン言いなはんな!」て逆襲しますわね。あそこらでも「女というもんは一皮むけばこわいもんや」というんやなくて、言い方にかわいさを残してせいいっぱい逆襲してても決してきつくないという女のやさしさを残したいんです。一生懸命毒づいてもちょっとも効果的でなくて、かえってかわいらしいフツーの女やったというふうに演じたんですね。(桂枝雀(2))【蘊蓄】 1741(寛保1)年、大阪豊竹座で初演された『播州皿屋敷』3巻が全ての元となった作品(「お菊の皿」を参照)。桂米朝によれば、お菊は尼子十勇士の一人、寺本障子之介の娘で、青山家に隠密として入り込み、正体が現れて殺されたという説もあるという。幕府編纂の「徳川実紀」(1809(文化6)年にも出ているが信憑性には欠ける。 岡本綺堂の「番町皿屋敷」は1910(大正15)年の刊行。主人に縁談が持ち上がり、その心を疑ったお菊が皿を割る。鉄山はそれを知って、男の本性を疑われたと手打ちにする。お菊は納得ずくで殺されるので、化けて出ない。 17世紀後半、江戸市中の更屋敷騒動 江戸番町の青山主膳の屋敷。元は天樹院千姫の屋敷跡である。千姫は本田忠刻に先立たれると、播州姫路を出てここに移り住んだ。女一人の寂しさから、家人・花井壱岐と通じるが、この壱岐が竹尾という女家人に戯れると、千姫は嫉妬からこの竹尾を拷問の上殺害、井戸に捨ててしまう。天樹院逝去(寛文6(1666)年)後、更地となった所を火付盗賊改役の青山が拝領して屋敷を建てるが、更地に立ったので「更屋敷」と呼ばれた。 この青山主膳は性格が粗暴、向山陣内という盗賊を磔にすると、16になる娘の菊を自分の侍女とするが、これが高麗の皿10枚組の1枚を割ってしまう。主膳は彼女の指を1本切り落とさせる。菊は父を死に追いやった恨みを述べ、懐妊中だった主膳の妻への祟りを念じて、天樹院時代から残っていた古井戸に身を投げる。その後、井戸から鳴き声のような音が聞こえるようになり、生まれた赤ん坊は指が一本足りなかった。 18世紀半ば、浄瑠璃「播州皿屋舗」 播州姫路城主細川政元が傾城の色香に迷っているのに乗じ、重臣である山名宗全と青山鉄山はお家乗っ取りを企てる。鉄山は弟の忠太と主君の毒殺を計るも、忠臣・船瀬三平の妻お菊にさとられる。青山兄弟はお菊が主家より預かっていた唐絵皿を盗み、紛失の罪からお菊を攻め殺す。お菊は亡霊となって消えた皿を求め、青山兄弟を苦しめる。三平はことの真実を知り、青山兄弟を討ち取り、皿を取り戻して妻を成仏させる。 同じ頃、馬場文耕は「皿屋敷弁疑録」(宝暦8(1758)年)で小説を試みている。 18世紀末、根岸鎮衛「耳袋」、蜀山人「石楠堂随筆」、木村明啓「雲錦随筆」などに書かれた「お菊虫騒動」 寛政7(1795)年、江戸番町をはじめ全国にお菊の年忌ごとに揚羽蝶が異常発生、孵化直後の幼虫が体を糸で縛ったような格好で、さなぎになると後ろ手で縛って逆さ釣りのように見える、羽化するとどこかへ消える……これが拷問の上殺されたお菊の生涯と見えたので、「お菊虫」と呼ばれた。(参考『日本奇談逸話伝説大辞典』)