178:代り目(かわりめ)
【粗筋】 酔った男に人力が声を掛け、「近いからいい」 と断るのを、「助けると思って乗ってくれ」 と言って客にした。ところが、棒を上げるか上げないかという時に車を止め、前の家の戸を叩いてくれと言う。いわれるままに戸を叩くと、かみさんが出てきたが、「まあ、お前さん、また酔って来て……すみませんね。車屋さん、おいくらでしょう」 何とここが酔っぱらいの家だったのだ。亭主の方は、「助けると思って乗ってくれというから乗ったんだ。最初から近いからいいと断った」 と平気な顔。家に入ると女房に寝酒を出させ、つまみがないと聞くと夜あかしのおでん屋へ走らせる。「外へ出るといって鏡の前で顔はたいてやがる。暗くなってるし、その顔ォ化粧したって無駄だよ。さっさと言ってこい、ブスッ、おたふくッ…… へへ、行ったな……しかし、こんな酔っぱらいに付き添ってくれるのはあいつくらいなもんだ。やっぱり女房だね。本当は俺も感謝してるんだ。口でブス、おたふくと言いながら、心の中では弁天様と思って、こうして、いつもすみませんと手を合わせ……何だ、まだいたのかい」 さて、亭主は癇をして飲みたいが火がない。そこで、通り掛かりの鍋焼うどん屋に燗をさせ、燗がつくとうどんは嫌いだと追い返す。帰ってきた女房がこれを聞いてかわいそうに思い、何か買ってやろうとうどん屋を呼ぶ。「おい、うどん屋、あそこの家でおかみさんが呼んでるぜ」「どこです……ああ、あすこは行かれません。ちょうどお銚子の代り目でございます」【成立】 文化9(1812)年『福三笑』の「枇杷葉湯」が、暑気払いに効く煎じ薬「枇杷葉湯(びわようとう:暑気払いの薬湯に甘草を加えた飲料)」を売りに来た男に無理やり燗をつけさせる話で、落ちも同じ。文化4(1807)年の喜久亭壽暁のネタ帳『滑稽集』に「丁子かわり」とある。 女房を買い物に出すところ、「何だ、まだいたのか……元帳を見られちゃった」で切る。この場合「酔っぱらい」という題名もよく用いられている。まあとにかく多くの人が演じているが、本来の「代り目」まで聞くことはめったにない。尚寄席では「替り目」という文字のことも多い。【一言】 昭和24年の新東宝映画「銀座カンカン娘」で、引退した噺家・桜亭新笑に扮した志ん生が、ラストで甥夫婦(灰田勝彦・高峰秀子)の新婚の前途を祝うため「かわり目」を演じてみせる。ちょうど神さんを追い出すくだりで、汽車の時間があるから早く立て、と目と仕種で二人を促し、客だけになった後、いい間で亭主の独白に入るあたりは、後年の志ん生のイメージとはまた違った、叩き上げた正統派の芸を感じさせた。(立川志の輔)●ライスカレーが五十円、寄席の入場料が百円だった。上野「鈴本」の前を行ったり来たりして、悩みに悩んでいる私であった。「ライスカレーを食べるか、志ん生を聴くか」 懐中には百三十円しか持ち合わせがなかった。ライスカレーを食べると、寄席の料金に不足をきたす。ライスカレー抜きでも古今亭志ん生を聴きたい。が、確実に高座に出てくれるという保証はない。以前、せっかく入ったら、お目当ての志ん生は休席で、他の咄家の代演になって、がっかりした経験があった。志ん生は売れっ子であった。もし、今日も代演だったら、ライスカレーにしなかったことが悔やまれるだろう。あと二十円あれば、悩むこともなかろうに、とつくづく貧の身が情けなかった。「えい、ライスカレー食べなくても、死ぬわけじゃなし」意を決して鈴本の木戸をくぐった。(中略)円歌や馬風(いずれも先代)、小円朝などが出て、膝替わりの色物が終わると、「一挺入り」の出囃子が鳴り出した。客席がほっとしたようだった。不安な気持ちで志ん生の出を待っていたのは、私だけではなかったのだ。 志ん生が体をひねり加減にして瓢々と現れる。一斉の拍手だ。が、すぐに止む。一秒でも早く志ん生の声が、噺が、聴きたいのだ。「……エェ明治から大正にかけまして、この時分には、世の中もまだのんびりしておりまて……」 志ん生がゆっくりと口を開く。と、そのときだった。客席の上に大きなオニヤンマが入ってきて、悠々と飛行しはじめた。 そのころは寄席は春夏秋とも窓は開けっ放しだった。もちろん冷暖房装置などなかった。オニヤンマは不忍池から飛んできたものに違いなかった。 だが、客席は誰一人、オニヤンマを気にしない。ジロリと視線を向けただけで噺を続けた。噺はお得意の『替り目』だった。 志ん生が淡々と落語を演じ、客席には笑いのさざ波が立ち、窓からは乾いた秋の風が入り、そしてオニヤンマが飛んでいる。百円にしては勿体ないくらいの情景だ。「やはりライスカレーにしなくてよかったなァ」 昭和三十年、戦後十年目の秋であった。(米倉瑞穂)●ジャイアンツの忘年会で頭の悪い選手たちがだれも笑わないのに腹を立てて、よし、それなら意地でも笑わせてやろうとリキんだとたんに脳溢血で倒れた古今亭志ん生が、闘病1年ののち奇蹟的にカムバックしたのは昭和37年(1962)11月の上席からだった。再起第一声は新宿・末広亭の高座で、釈台にもたれて『代り目』を演じると、客席のあちらこちらから、おめでとうの声がかかった。無事に高座を終えて、「なんともねえですよ。もう自信がついたね。酒のんじゃダメ、噺をしちゃダメじゃ、なんのために呼吸してるのかわからねえよ」といかにもうれしそうに語ったその志ん生が、ついこのあいだの「円朝祭」(東横ホール)でボソボソとしゃべりだした。「このごろは自分でしゃべっていてもおもしろくない。あたしがおもしろくねえんだから、聞いているあなたがたはもっとおもしろくねえだろう。だからもう寄席には出ねえんです」この明暗二つの所懐のあいだに5年の歳月が横たわっており、志ん生は78歳になった。(江國滋)【蘊蓄】 「オヤ、もうお銚子の代り目だ」(『軒並娘八丈』文政7(1824)年初演)