カテゴリ:泉昌彦氏の部屋
土塀から甲金ザクザク 甲金地蔵の下からも16個
塩山市千野部落に村田七郎家という旧家がある。「峡中家歴鑑」という甲州武家の総系譜は、実にその家譜を詳しく伝える武家資料だが、村田七郎氏の始祖については、黒川金山最初の発見者だとある。 多分これはすでに採掘されていた黒川谷鶏冠山において、新しい別の間歩を発見したものと解すべきだろう。すでに同市上粟野「村高書上げ帳」では、田辺家も金山の発見考としているから別に金筋を発見した者が重く用いられたものである。 村田家の由緒によると、その始祖は村田弥三と称し(京都出身の僧)、武田氏に仕えていた当初に黒川で金山を発見し、信虎に上申して大いに金脈に当たった。これを奇として作られたのが「金見地蔵尊」で、正しくは千野村字鴬居原に祀り、つつじケ崎の守護のために古府中へ向いていた。 信玄時代は「普譜奉行として仕へ十二代昭貞に至る」と、武田氏より給わった物品も数種あるが、とくに元亀二年(1571)に、信玄より与えられた 「一間棟別共御赦免、然而御普請役隠田等軍役衆可為重、云々」 の朱印状を伝えている。この村田家が、いかに黄金との関係があって栄えたかは、隣村まで他人の地所を一歩もふまなかったという点でも、近くの鳶の宮神杜が村田助之丞正次の創建といわれ、始祖の墓が五輪塔の並ぶ大きな墓地だったことでもわかる。 すっかり産を傾けたことを悔やみもLない七郎氏は、 筆老にその金見地蔵を贈呈すると言い出した。幾重にも辞退したが、この金見地蔵の下から十六個の駒金(石打金)が発見されている。それも真面目なるが故に、むかしの警察へ渡してしまったという。 この甲金は多分、屋敷墓の下にまだ埋もれているだろう。たまたま新仏を埋める時に掘り返した土にまじっていた物であると判じられる。この村田家の真裏にある家来宅の村田源一二さん(現在空屋敷)宅で、土塀を崩したとき、塗り込めてあった甲州古金がザクザクと出て来たのは近年のことで、今は厳重た竹垣をして東京へ移ってしまったので、隣家で行先きを訊ねるのも面倒なので、その駒金の詮索は市の住民課ででも訊ねて、読者に任せたい。ただしザクザクという近所の人の弁の通り、一升マスヘ一杯も出たという程ではあるまいから、量についても、出土の状態も、本人の方が正確だが、東京まで訊ねて行くことは筆渚としても時問が許されないので、埋蔵金の出たことだけは確実である点を保証するにとどめたい。 ともかく、さすがは黄金王国だった甲州のことであるから、埋蔵金だけでも前記のように続々と出ているだけに、今後の発掘の成行き次第で、とんだ大口に当たる可能性も高い。実際に埋蔵金とは、必ず出るというデータによって発掘の範囲を縮めていけば、山吹色に頗が染まるような夢も叶うものである。 本願寺門主顕如と相婿だった信玄が、本願寺へ軍資金だけでなく、出兵して紀州雑賀衆と共同作戦で信長と戦わせたことは、NHKの「国盗り物語」には出て来なかったが、現実には勢州長島の門徒教団が信長に抵抗した長島へ出兵している。その大将の種村兵部丞に対し、武田信豊(信虎の孫)が出した次の印書がある。
「至勢州、長々存陣炎天時分苦身推察候----」 また甲州へは、別に本願寺の教如から末寺へ軍資金を求めた檄文が寄せられている。これは、筆者の生家の寺と程遠からぬ勝沼町の万福寺に三通ほかが遺されているが、愚民の信徒をして武力に対抗させ、双方何十万もの人を殺し合っている点では、いつの世も「万民ノ心ヲ以ヅテ心トスル」為政者は不在のようである。 坊主が戦争や政治に介入することに対し、 「僧トハ影キ珪いでずこけいすまず (自己)山ヲ不出、客ヲ送リテ虎渓ヲ不過」(無住国師)が本釆の姿で、教団の屋根の高さを競い合うことは、いずれの始祖も本願とするところではなかった。
「三衣一鉢ヲ身二随ガヘテ、四海ヲ以テ家トナシ、父母妻子を離レテ山林二交ル」 宗祖道元も教団を否定し、 「僧トハ水ノ如クニ流レユキテ、寄ル処モナキヲコソ僧トハ云フナリ。従へ衣鉢ノ外二一物ヲ得ズトモ、一人ノ檀那ヲモ頼、ミ、一類ノ親属ヲモ頼ムハ自他トそ二縛住セラレテ不浄食ニテアルナリ」(正法眼蔵随聞記) と断じ、門徒宗の始祖親驚が、 「死後は鴨川の水に捨てよ」 と言ったのも、教団の主となることは、望みでなかったからである。
信玄の黄金に踊った坊主はあまりにも多い。坊主嫌いの信長が、甲州攻めの折りに、戦さに加担した寺々を片っ端から焼き払ったのも、坊主が戦争の媒介をしていたからである。 信玄の師、快川和尚も、また恵林寺(古文書では栄林寺が本来の名だ)の山門上で、八十余人の坊主、法印、山伏とともに生きながらに地獄の業火の中で果てた。 表土にしか黄金の盛山期が存在しなかった黒川金山の黄金も、幾十万という人間の血を吸ってどこかへ失せてしまい、古府中のつつじが崎へ大穴を開けて、大騒ぎを起こす埋蔵金探しの勇者が現われる始末だ。 「玉ノ台(ウテナ)ハミガケド毛野辺コソ遂ノ栖(スミカ)ナレ」 英雄信玄を、もっと黄金史の裏側から追ってみると、神格化された信玄の映像にも、一個の支配者の束の間の強欲しか映らない。筆者には、黄色い砂塵を捲いて掠奪による英雄を生んだ北方大陸の鏡馬民族の姿を、信玄から思い浮かべずにはいられない。 その信玄時代に盛山の幕を閉じた黒川鶏冠山は、全身に穴を掘込込まれた満身創夷の孤影を、佗しく春日の空にかこっているかのようだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月26日 16時34分35秒
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