「坂田日記抄」泉昌彦氏著『信玄の黄金遺蹟と埋蔵金』
「坂田日記抄」泉昌彦氏著『信玄の黄金遺蹟と埋蔵金』 紙幣と甲州金と貨幣の呼び名 一部加筆 山梨県歴史文学館 元禄十(一六九七)年覚(読み易くした) 一、金銀吹直シニツキ古金銀ハ新金銀ト弥(いや)引替申スベク候、御料ハ御代官私領ハ地頭ヨリ申シツケ遠国ニ至ルマデ古金銀ノコズ、引替サセ申スベク候、古金銀ノ儀来ル寅(翌十一年)マデハ只今ノ通リ新金銀ト一様ニコレヲ用イ、ソノ以後ハ古金銀通用相止メ、新金銀パカリ用ウベク候間ソノ旨存ジ候、モシ古金銀ヲ持チアリ候ハバ金銀吹直ノ場所(前記の東光寺村の吹床)へ申出候以上、丑五月。 元禄十年覚 今度新金の弐朱判出来、世間へ梱渡通用自由のために候間、国々所々までその旨を存じ、商売請取方渡方とどこおりなく、弐朱判をも用ひ申すべく、弐朱判は壱分判の半分のつもりたるべき事。 一、大判小判勿論出来る通り通用つかまるべき事、前右相ふれ候通り、にせ金銀つかまつる者これあり本人は申すに及ばす諸親類、そこの者まで曲事たるべきものなり。 このように、甲州金は細工師などがニセモノを作っていたようである。そして新金銀と古金銀の交換はやかましく徹底させたので、いま甲州金が手に入るとしても、埋蔵金くらいしLかアテにならない。 このあとの町年寄の日記には、正徳四(一七一四)年に甲安金を吹足Lたときに出された覚えがあるが、スペースの都合で一部をのせて分かり易くする。 (以下「甲州文庫資料」所収) 正徳四年頃は、 銭が多く出まわり商人は商売が自由にできたが、江戸も近国も銭相場がさがり、不相応に銭を沢山に買占めるので、両替屋は申すに及ぱず、諾商人ども方より売らぬよう申付けの覚があるが、この申付けもききめがなく、さらに二月には銭の貿占めがひどくなって売買に差支えるようになったので、取締りもきびLくなり、遂には商人に至るまで印判状を押させて銭の買占めを禁じた。 正徳五年には、 新金銀日をおって世上に流布し通用候、そのうち東国筋は金通用の事に侯ところに新金いまだ諸国在次に行渡らず、そのうえ只今までつかひなれ候故に多分は小形金をもって通用の由に候、去年仰せいでられ候新金銀通用の次第は、万事について少しも損徳これ無きための御沙汰侯ヘバ、御触書の旨を相守り、新古金の撰びなく相用ゆべき事に候ところに、小形金ぱかりの通用にかたより候事は、遠国の者どもその仔細を相心得ず候と相見へ候間、村々の名主組頭等はいふに及ぽず、大小の百姓どもまたは諸商売人この旨を相心得候て元禄金小形金ともにありあわせ次第に新金に引替候よう仕るべき事。 以下の覚も、新金と元禄金の引替えがなかなか徹底しない点が記されている。 覚一、新金銀、日をおって通用し候について只今にいたっては世上に相残る元禄金その数を減じ候、これにより元禄金通用の事は来カ年の十二月(享保二年)限りとし、その明年正月よりは世上の通用一切に停止たるべき事。……以下略…… 享保二(一七一七)年の覚には、 一、新金出来候にしたがい、乾字金も段カ引替候、これにより乾字金通用のこと、当酉年より来る亥年(享保四年)を限り、翌子年より世上の通用を一切停止たるべきこと。一、乾字金通用年数おわり停止ののちに至ても、或は遠国にて新金引替申すべきこと, と、町内の者から申渡しの印形を取置くという、きびしい申付けを行っている。この問に差しはさんでおきたいのは、甲州金の名称である。 甲州金の字源 泉昌彦氏著『信玄の黄金遺蹟と埋蔵金』 一部加筆 山梨県歴史文学館 「甲斐叢書」に所収されている「坂田家文書」に、「小判壱両、甲壱両三朱、これは申正月は江戸与一左衛門殿よりわれらの借り分、丹尺壱分この甲壱分二匁五分」、 また「古山日記」にも「……右雑用金丹尺壱分渡……」「右竹右衛門村方へ出候賃銭丹尺弐分、残り三百五十文つかわす。ただし丹尺弐分は兵大夫方へ渡す……」 などとある。 「昆陽漫録」に、 「梁(りょう)ノ時(五〇四~五五七)官銭ニアラズシテ民問ニ行フ銭ノウチ径七分半、重サ三鉄銭アリテ文ヲ五朱トイフ。コレ銖(金ヘン)ヲ省キテ朱トスルナリ、甲州金ノ鉄ミナ朱ナレパコレニヨルベシ」 とある。 「鐚(びた)は悪銭ヲ一字トシ、天正ノコロハ京ヨリ西ハ金壱両二鋸五千貫」、この悪銭に対して「青銭ハ精銭ノ精(米ヘン)ヲ省イテ青銭トイフ。青銭ハ青銅トモ言ヒ・…‥」、鉛銭は「九暦ニイワク天徳(九五七-六〇)三月二十八日、新鋳銭を吹くべし(これは天徳二年三月の乹(卓)元大宝銭のこと)、鉛銭出ル、天正慶長ノコロ関東ノ民ヒソカニ鉛銭使ヒシナリ」とある。 昆陽先生も、銭にはとくに学究心が高く、著書に「奉仕小録」「昆陽漫録」「甲州略記」などがあり、学識の豊かさでまとめている。