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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年02月24日
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カテゴリ:泉昌彦氏の部屋

武田領と今川領を結ぶ黄金の金ヅル

  

 中央線をへだてて鏡子峠で結ばれた御坂山塊は、

三ツ峠-御坂山-節刀ケ岳(一七二六メートル)

-王岳(一六二三メートル)と、

西湖に沿ってまわりこむようにして烏帽子岳、釈迦ケ岳などと袖をわかって、主峰は本栖湖の北岸をまわりこんで、

竜ケ岳(一四九三メートル)

-金山ケ倍(雨ケ岳、一七七二メートル)

-毛無山(一九四六メートル)

-天子ケ岳と、一応駿河の白糸滝上あたりで終わっている。

 

富士山の朝霧高原からみると、富士山が天子山脈や御坂山塊よりあとから出来た山だということが、誰の目にも明らかである。武M氏と今川氏の金山は、本栖湖を見下す国道に立ってみると、竜ケ岳から嶺をわけて、それぞれの領分にあったことが明らかである。

 下部の中山金山から掘り込んだ間歩のなかで、今川領の胡桃沢金山の方からも掘込んでいる槌の音が、おたがいの金掘りの耳にも響いたという伝承が真実であったということは、毛無山の中腹にある地蔵峠に立ってみないことにはわからない。

 甲州領の中山金山は、この地蔵峠のすぐ下にあり、地蔵峠からはまだ眼下に胡桃沢金山が見えるからである。

地蔵峠から富士宮有料道路を走る車の音すら聞こえてくるほど、両方の金山は一つの金ヅルを追って掘っていたのである。

 さらに湯之奥金山といわれたものには内山、萱小屋の三金山があった。

地元では「入島」「広野」金山と呼んでいるが、門西家の金山古絵図や甲斐国志ほかの文書では、湯之奥金山は中山、内山、萱小屋の三金山が、公称である。これは後にくわしく記す。

 

片や栃代(とじろ)金山は、雨ケ岳を振りわけに川尻金山の金ヅルを引いている。また稿を追ってしるす早川金山も、大金山を振りわけて保金山黒桂金山が同じ金ヅルを引き、出水のたびに雨畑へ砂金が集積されたのは、丹波山の三重河原と同様、雨畑川と奥沢の双方に金ヅルが存在したからである。

 これで、なぜ、どこから砂金が集積するのかの地理的理解をなされただろう。

その金ヅルをたどって、戦国時代に鼻のきく有能な見立師によってつぎつぎと山金場が発見されて、信玄の時代に最大の盛田期を迎えたものである。

 この点でも、信玄が時の英雄になり得る金ヅルという幸運に恵まれたのは、家康が長安という天才鬼才ともいうべき金銀開発のコンサルタントの力によって、幕府創立期の財政を賄い得たのと同様であろう。

 

偽の多い古文書や江戸期に推測で書かれた文献をたどるより、太古を語る化石のように、武田黄金山の解明は、足でその金ヅルをたどる方がより確かだという点では、黒川金山の巻で充分説明しえたと信じている。

 なんでも古文書を引っぱり出さないと歴史解明にはならない、伝説など取るに足らない、という石頭流にいえば、神話にある古名が現在のどこに当るかという日本書紀などの解明も、空想に過ぎないことになる。

 

  安倍梅ケ島金山

 

早川金山と嶺を振りわけて、金ヅルを引き合っているのが、安倍川の上流を遡った梅ケ島、大河内の金山である。このスケールの大きな黄金山を理解するには、まずこの方面の山岳を頭に入れておく必要がある。

 南アの地図をひろげると、

間ノ岳(一二八九メートル)

から甲駿の国境を分かっている

広河内岳(一二八九メートル)

-別当代山(二二一五メートル)

―筑ケ岳 (二六二九メートル)

-青薙山 (二四〇六メートル)

―安倍峠

-十枚山 (一七一九メートル)

と連なり、清水市で終わっている。

 

甲州とは、身延町大城金山、早川町の長畑金山と金ヅルを引合っている笹山は、大崩れから嶺を井川(現静岡市)にのばしている。

笹山は旧井川村誌によると、享禄四(一四三五)年以前に採掘したことを古文書であげ、享禄四年十一月二十二目に上納をはじめたとしている。

天文元(一五三二)年辰年、大河内村人 島六之丞が請けおい、採掘三か年に五両ずつ上納、天正中より慶長中には、もっとも産金額が多く慶長の大判、小判はこの金をもって鋳造したものと推定し、当時は一日八十両の純益を得たとある。

 同村は、大正初年まで武田氏の領分であったが、安倍元真によって徳川に帰すとあるが、この井川村目代の先往者は甲斐より来たもののようだと付記している。

静岡市の旧梅ケ島村誌は、市川大門から移った秋山、小泉姓をあげているが、筆者の調査では梅ケ島はほとんど甲州人で占められている。

 梅ケ島村は、砂金によって甲州の金掘りが先往者となった点、天福ニ(二回目)年の銘がある白髭神社の棟札のほか、同村の市川氏の祖は文明年中(一四六九~八六)に市川大門から移り、旧村の平右衛門島(梅ケ島小学校)が旧屋敷石とぺ普賢菩薩も、文明十七(一四九五)年に創立した日蓮宗連久寺も、また永正三(一五六)年開創の指月院も、すべて甲州から移したもので、権ケ島村民は殆ど甲州より移住してきた。秋山、市川姓名はこれなり(同村誌)。

 梅ケ島金山は、永禄十二(一五六九)年に、今川氏を追った信玄によって支配されたことは鮮明だが、実際は穴山梅雪が経営したものである。以上は梅ケ島、井川の巻にゆずり、安倍川の上流には、大河内、小河内などにも武田支配の金山があるが、ことに旧大河内村の古間歩は分布が広くて、その数もつかみにくいほどだ。

 梅ケ島金山は、静岡市から九十九(つづら)折りの安倍川沿いに四十五キロもある。終点が梅ケ島温泉だが、ここから林道を歩けば、身延町へ徒歩で三時間だ。

 このほか、甲州との往来は、身延続きの南部町から十枚峠を越える山道があり、甲州最果ての中富町から、徳間峠、楢峠が清水市を結んでいる山道だ。

 夜間には人家の灯も途絶えた山峡で、車のヘッドライトにキツネが目を光らせて横切るような奥入りだ。魚介も豊富で、土地も肥沃な広大な駿河平野から、四十五キロもある山奥へ移ったのが、黄金に魅力せられた甲州の金掘りということは、甲州に近いこともあって外れてはいない。したがって領土は今川氏でも、先住者たちは甲州の金掘りであった。

 

信玄が、井川や梅ケ島の金掘りを煽動して安倍元高を追ったのも、徳山城(静岡県中川根町)攻めでは、金掘りによって城崩し戦法をとったのも、故なきことではない。武田黄金山物語は、まだそのとっつきに差しかかっただげで、信玄は天下を取るより、黄金に憑かれて隣国の黄金山を掠めた金掘りの武士団だったという黄金山史からみた筆者の見解は、稿を追って明らかにしたい。

 

以上が、これから現地にみる南アルプスと天子山脈を振りわけにした巨大な武田氏の黄金山であるが、前記の黄金山を、東河内、西河内領を知行していた武田親族の穴山氏が支配していたことは、黄金山に出されたわずかな文書でもあきらかである。

 

では穴山氏以前はどうであったかについては、前記のとおり文献がないのでお手上げであるが、黒川谷・鶏冠山金山の項に照らしても、穴山氏の支配以前には、すでに土着の小豪族か地侍によって、いささかの産金、金銀をみたという手がかりは充分にある。どだい、東・西河内領といわず、甲州一円の地侍の家譜は、鎌倉時代にはいってから吾妻鑑などによって、わずかにその武名を窺い知るていどの由緒しかない。

 

  穴だらけの下部

 

 筆者は、穴山氏支配以前の金掘りのにおいがプンプンしながらも、何一つつかまらないので、各部落にある洞穴というものを、土地の人の案内をうけて見てまわった、たまたま栃代金山に隣接した杉山部落で、道路工事中にブルが崖下から横穴を掘りあてて話題になった。

筆者のみたところでは別段ふしぎな穴でもなく、単なる試掘の穴である。先往者の穴居した穴なら、日蔭の方にはないからだ。

 この杉山部落につぐ犬伏平部落には、またとてつもなく巨大な穴がある。いつ掘ったのか、またなんの目的で信仰に結びつけて中へ石地蔵さまを祀ったというから、古い穴に相違ない。戦略的な穴、地下水道(清水場という水汲み場がある)、金穴、信仰の穴、先往者の穴とさまざまだが、身延町大城金山にそっくりおなじ迷路の穴があり、同町の町誌では武田時代の砂金を掘った穴とある。

 この大炊平の地続きの岩欠部落にも、昔は地下洞窟があったという住民と連れ立ってそこを見たところ、いずれも沢に面している。岩が多く欠け落ちるので村名となったという(国志)この部落は、昔、山津浪で部落が埋まって現在の地へ移った。この部落にあったという洞窟は埋まって跡方もないが、大城の大穴とくらべてすべて砂金鉱の穴である。

 

歩を転じて、国道三〇〇号線を本栖湖へむかう瀬戸に掘ったかは口伝すらない。今は入口がすこし残っているも、甲斐国志が奇跡の穴として記している大洞窟があるだけだが、部落中の下をアミの目のように縦横に迷路がある。部落の人が入ったところ、ドスンドスンという音がすぐ頭の上でしたので、穴から出てその見当を調べたら、稲を打っていた音とわかったというから、どこか

の家の床下も穴ということになる。

 この穴は、江戸中期に発見された際、所の神主がすぐ地元の古老、渡辺𠮷広老の案内で調べたが、夏は穴から噴出する冷気で穴の入口の草木の葉が枯れ、冬は温気で青々とするというこの穴は、やはり沢に面している。

この沢入りにも、昔から伝えにある金鋼山がある。

 この洞窟のある瀬戸から、さらに七、八分車を走らせると、根っ子という部落がある。

 

 十年ほど前に閉山したという大きな銅山と金山の穴が残っており、村の女性たちは選鉱婦としてずっと働いてきた。

 この根っ子の赤池という大家の古老は、四百年ほどむかし、美濃の人が銅山を発見して三年ほど稼行し、閉山のとき部落へ寺を開基した。これが銅根山万福寺で、境内に恵林寺殿機山公(信玄)の供養体がある。

 穴はまだ数限りなくあるが、国道三〇〇号線にもどると、中屋敷部落一帯にも、また長坂にも古金山のあとがある。

 三〇〇号ぞいの穴は、同道の拡幅でポッカリあらわれたもので、中に発動機のプーリーなどがあったので、近代稼行か、試掘したものだ。

 国道三〇〇号線に長塩というバス停がある。山の神の古い社の前にあるのが日影山で、この山も、長坂の旧家礎野政朝氏の話しに、金山として稼行されて山崩れをおこしたというから、全身に掘り込まれた間歩の崩壊であろう。こうした間歩の内部崩壊による山崩れは、金山のある町にとっては実態調査のうえ、監視が必要である。

茅野市の金沢金山の開歩の崩壊を、毎年撮影していることはすでに記したが、間歩の上をバスや車が往来しているところは丹波山にもある。

 崩壊速度を追って、間歩の年代測定のデータにしている筆者の警告も、自分自身が間歩の上を歩いていて二、三分後に大陥没して、危うく立木とともに蟻地獄へ落ちる寸前(塩山市竹森山)の経験があるからだ。野放しの廃坑は坑内の水が一気に吹き出たりする例も多く、危険な山津浪につながっている。

 さて、このほかにもまだまだ河内領には多くの古金山の間歩がかくされている。

 筆者が金銀山の埋もれた古文書をさがして、前記の磯野宅を当たってみたが、名主水帳のようなものばかりであったが、中に弘化二年(一八四五)年に「狼の出る差上げ申す一札の事」があった。

かいつまむと、

「当組合のうち、飯野分持馬、

去月二十七日病死いたし候につき、

死骸掘り埋め、敢行つけまかりあり候。

しかるところ、河内領の儀は山つき村にて、

狼山犬夥しく、右愁これあり、

作揚通行の男女その外往来の旅人さしつかえ……」

 

といった内容である。維新にちかい江戸末期、武田氏の黄金山はさらに山深い。

 狼、熊との出合いも多かった資料として挙げるにはまだあるがさておき、いわば穴山氏の支配地であった現在の下部町には、至るところに掘りこまれた古金銅山の間歩が数限りなくある。これも稿を追えば、もっと明らかになる。

 いずれも、いつの頃とも不明であるが、はっきりしているのは、湯之奥といった文証のある旧武田氏の金山でも規模の大きなものだ。

 これらの証拠をなくしたさまざまの穴も、他の金山との比較からみて、筆者は黄金に憑かれて河内領にひしめいていた金掘りの見立師や、まだ部落ごとに「砂金、山金はないか」と、金ヅルを追って掘った穴だということが、はっきりしている。

 

 金ヅルというものは、すべて山腹の切れた峡谷、沢に露頭していた。この理窟からして、金山の付近は、沢という沢すべてにわたって、見立師のツルハシ(鶴嘴)が入っている。その時代を武田氏に限るなどは、産金年代に照らしても不合理である。

 

西・東河内領内の産金年代は、穴山氏以前にさかのぼるといって、やぷさかではない。

 文献はまださきにゆずり、もうすこし産金年代にさぐりをいれるため、富士身延線の波高島駅から約四キロ山峡に入った帯金氏の菩提寺、金松山静仙院を訪ねてみよう。

 

  丹波山村の金華山金竜寺、

小菅村の湧金山宝生寺、

塩山市一之瀬の黒川山金鶏寺、

黒川移転の金光山妙善寺、

放光寺(塩山市)、

 

ほか「黄金」を山号寺号にした古刹すべてが黄金山に深いかかわりのあったことは、すでにのべた。

東・西河内領でも

雨畑砂金山に金谷山東陽寺、

保金山に長金山法乗寺、金剛山朝農院、

下部町常盤の金竜山常幸院(栃代金山に末寺があった)、

和田の金腰山大本寺、

岩欠の会意院、

釜額の金松山長沢寺、

帯金の前記金松山静仙院

 

とみてくると、これら東・西河内領の古刹は、武田黄金串の盛田期以前の寺ばかりである。

 信仰のとくにあつかった金掘りにとって、仏寺は生活の一部であった。根っ子の銅根山開基のいわれに照らして、これから訪問する帯金氏の菩提寺金松山と、付近の古名「見付沢」、「銀の沢」などからも、帯金氏という後の地位は、もと金掘りの一族ではなかったかと考えながら山門をくぐった。

 

 湯之奥今川には、中山と入島の間の山中に「帯金石」がある。さる正月、帯金さん(地元古称)は火縄銃をかついで、中山金山で猪を仕止めようと山中をさまよっていた。

 その正月は、火縄銃に賭けた猪一匹で米を買ってしのがねばならなかったほど落ちぶれた帯金さんは、そこでやっと猪にめぐりあって念願の正月の米にありついた。

このとき思案中の帯金さんがつけた火縄銃の台尻のあとと、犬の足あとが大岩に刻みこまれた。

また米を買うことが出来る猪を射ったところに、米のあとが一面についた石が残った。これが「帯金石」と「米谷」の伝承である。

 帯金さんについては、まだ金掘り的ニュアンスの伝説もあるが、「伝説など、歴史のうちには入らん」と、面と向かって筆者を批判する研究家を自称する石頭に悪態つかれることになるのでひとまずおいて、筆者はあまりアテにならないニセ文書の氾濫する河内領で、ある期待を抱いて富士川沿いに帯金部落へ向かったのである。

 

 部落のとっつきに八幡宮がある。縁起によると、応仁元(一四六七)年、九歳の少女に鎌倉鶴ケ岡八幡の神託があって、時の領主帯金刑部介信継が開基し、文明十一(一四七九)年に霊夢で霜月十五目を祭日と定めた。

 永正十四(一五一七)年代に帯金言継、天文十八(一五四九)年に刑部助(名欠)が在城したとある。実は棟札、文書、神器いっさいは、安水中の江戸期に焼失している。

 富士身延線の踏切を渡ると、小高い山をうねる簡易舗装の道が寺内へ通じている。広大な寺領は美林にかこまれて、いかにもひなびた路として申し分ない。山門をくぐって案内を乞うと、老憎が墨染の衣ならぬ粋なズボンで出てこられた。

 縁起は、北条貞時が正和三(一三一四)年に建立し、応仁二年に前記の信継が開基とある。しかし、執権貞時は先年の応長元年に死んでいるので、死人が寺を建立できない。これは宝永二年の書上げであるが、開基以来の各住持の無宝塔のそろっている点はまれにみるもので、帯金氏代々の墓碑銘もかなりはっきりとし、肉はほろびて見事な石塔が残った。

 信継を初見とする帯金氏の菩提寺の山号や見付沢、銀の沢の古名に対し、甲斐同志は

「……東河内の一般邑にして六組一の魁(筆頭)なり。

金鉱あり、よって村名となるか」

と、百六十年前にまとめた同志編者も筆者同様に、帯金氏と金鉱との関係をほのめかしている。

 

 百六十年の空白のあと、筆者にこの謎は解けないまでも、帯金氏だけでなく、他の地侍あるいは土豪の手によって、黄金山や銀山に手がつけられて盛衰を重ねて、穴山氏のゴールドラッシュュ時代をむかえたのが、河内領の黄金山の前身であると判断できる。

 この判断に、もっと大きな金掘りの遺跡ともいうべき古名にまつわる伝承の地がある。

 文献の出典は後に譲っても、こうした面から捉えないかぎり河内領の黄金山解明は、手をかえ、人をかえてウンザリするほど見せつけられて来た信玄や梅雪のお決まり文書だけでは、味も素っ気もない物語に終わってしまう。

 

 そこで、山津浪に消えた大黄金山は果して存在しただろうかという、幻の金田(こんでん)千軒を踏査してから本筋にはいりたい。そのまえに、この土砂に消えた金田千軒については、町誌があるので、それを先に紹介しておこう。

 

 久成部落を北上して、「もみそ部落」にいたる途中に懇田(こんだ)という地名がある。年代はよくわからぬが、大きな部落があった。

ある年、豪雨で部落中が流され不荒地となる。墾田の入口に石塔が残っている。墾田は焼畠の方にある。

 一説に墾田は「金田」で、そのむかし「金鈴場」ともいって、墾田の「塚原」と呼ぶ所は昔の「金塚」(金屋護神)の路という。流出して移住したという手打沢に鋳物師の小字あり、中野に「金山様」と呼ぶ屋敷神がある。

 また平須の幡野力氏所蔵の寛永七年の古文書とも関係がある。兵左衛門、助之丞、伝左衛門、伝兵衛の五名連印で、黒川、股ヶ沢、市川金山、中山金山など武田時代から慶長にかけて御用金を採集仰せつかった朱印状を下附された記録がある。

 「墾田千軒」は金山衆の屋敷あとだった時代もあったかもしれぬ。従ってこの付近の先祖たちは、下部の湯は無料だった。

明治二十八年三月あげぼの村の佐野幸作、大須成村の秋山助蔵両名は金の試掘願いを出し(矢細区佐野三郎氏黄)富士見山官有地学水上長根の三十七万坪へも試掘談を出したが、これも伝説によって申請したものである(以上は南部町誌)。

 山津波が、一瞬にして金田千軒といわれるほどの黄金山をひと呑みにしたということは、下部町には前記の日影山金山の山崩れの例もあり、岩欠部落の埋没もある。

これは、すべて黄金の金ヅルを追った結果にほかならない。

 

国道二〇号線白州町下教来石のバス停から、約三時間ほどア

ルプス山麓に入り込んだ鬼窟の四キロ四方にも、山津波で消えた幻の黄金山がある。

 中富町地籍の懇田千軒の古名が金田千軒であったという説は、後者と見ても誤りにはなるまい。古名が、その土地にきざまれた先住者たちの命名した出発点から、下部町帯金の「銀の沢」「見付沢」とともに、河内領の黄金山が、きわめて上古にさかのぼるあかしのひとつでもあるからだ。

 「鹿塩」は、上古から塩泉が湧いているからといった、これまでの古名発祥に照らし、また鉱山学上の金ヅル、金掘りの苗字と系譜によっても、黄金山があったか無かったかは、これまでの黒川谷、鶏冠山金山の巻で充分理解されるところである。

 






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最終更新日  2022年02月24日 19時54分52秒
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