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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月17日
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カテゴリ:井上靖の部屋
余りにも寂しい。現在NHKで放映されている「風林火山」の原作者は井上靖である。そして彼の生誕100年を記念して、採り上げたと聞き及んでいた。しかしその周辺は主人公の山本勘助や、大型観光の展開で明け暮れ、肝心の井上靖について触れたり、紹介してものが少ない。井上文学を紐解いてみるのもいい機会だと思われるのに、残念でならない。勘助が一人歩きを始めた。何処へ行くのであろうか。

 

井上靖が甲斐を訪れた時の文章を紹介したい。
   「井上靖全集より」

 

早春の甲斐・信濃

 東京に初めて早春らしい陽の射した日、『周と雲と砦』の舞台である甲斐信濃地方に出掛けた。

 甲府に下車し、現在は武田神社の社域になっている武田信玄の居館の跡をみる。ここはいまは甲府市に編入され、古府中町となっているが、併し、市の中心地帯からは半里程隔たっている。信玄が城を築かなかったことは有名な話である。軍鑑に「信玄公御一代甲州四郡の内に城郭をかまへず、堀一重の御館に御座候」とある。信玄の居館跡は、なるほど城とは呼べないこぢんまりした地域でその四周の埠と、更にそれをめぐる内濠だけが残っている。樫、樺の老木が多い。当時の住居の正門は、現在の神社の正門とは違って東方の門がそれである。外濠の周囲には勿論近年植えたものだが、桜樹が多く、四月はさぞ見事であろうと思われる。

 信玄はここに住み、一朝有事の際のために、半里程北方の丘陵に山城を作っている。これも軍産に、「居館より二十町ばかりの地に、石水寺の要害とて山城あり、-塀もかけず候へ共先づ本城の様なるもの也」とある。さして大きい山ではないが、急峻な山である。この山には十二の段階ができて居り、各々百坪位の広さを持ち、現在、所々に石畳が残っている。国志には「本丸の長三治七間、広拾九間二ノ丸、三ノ丸と言ふあり」とあるから、城の樟構だけは備えていたらしい。山頂には井戸があり、馬場の跡も見られる。

 甲府を出て列車で一時間程行くと、韮崎に新府城の址がある。車窓から、信玄の死後勝頼が築いた城址が見える。ここは見るからに要害堅固な山であり、その城址のある山の向うに、雪を戴いた大きい山脈がのしかかるように見えている。武田勝頼は天正九年この城を築いて間もなく翌十年織田軍に攻められ、この城にも拠れなくなり、所謂天目山の悲劇へと逆おとしに突入している。

 併し『風と雲と砦』は、信玄の穀後から長篠の合戦までの三年間に物語を想定している。従って小説の世界では、まだ新府の城が出来ていない頃である。

 現在、小説の中では、俵三蔵がひめ及びその配下と共に天竜川を遡っている。三蔵は天竜川の源まで、遡って行く考えらしい二二蔵は天竜川の流れが、甲斐へ入るか、信濃へ入るか、あるいは三河の方へ折れ曲っているか知らないので、ただやたらに流れに沿って上って行きつつあるが、勿論作者はその水が信濃の諏訪湖から流れ出していることを知っている。尤も天竜川の源は大昔は甲斐に発していたらしいが、戦国時代には今と同じように既に諏訪湖から流れ出していた。その天竜川の流出ロを見たいので、諏訪湖の周囲を自動車で一巡する。湖は、例年より少し早く氷が解けたと言うことで、周囲五里の湖面のどこも氷結していない。水ぬるむと言った色ではなく、まだ黒っぼい冬の水の色ではあるが、どこかに氷の解けた許りの吻とした表情を持っている。岸辺にわかさぎを釣る人の姿が見える。

 天竜川の流出口のある地点は、丁度上諏訪の対岸に当るところで現在は勿論自然に流れ出すことを許さず、水門が造られてあり、釜石水門管理所が、その流出量を調節している。この管理所に於けるただ一人の所員は、午前八時と午後四時の二回、諏訪湖の水位を調べ、水門の鉄の門扉に依って流出量を加減する仕事を受け持っている。訊いてみると、現在の水位は標高(海抜)七五九メートル前後とのこと。その管理所の小さい事務所の窓から見ると、対岸に雪を戴いた八ヶ岳の連峰が見える。

 伊那電鉄で、天竜川に沿って下る。天竜峡までは川に沿っていないが、そこから中部天竜駅までの二時間程は、曲りくねった天竜川の流れが電車の窓から見降ろせる。風景はまさに絶佳である。その間川の両岸は切り立った絶壁をなし、その中腹のところどころに、十軒二十軒の小さい家が危っかしく建てられている。

 伊那の渓谷は、その山の色も、天竜の青黒い流れも、まだ深々と冬の中に睡り込んでいる感じだが、点々と見える梅の白い花だけが、僅かに早春を告げている。 戦国の頃、甲斐から東海地方に出るには、富士川に沿って下るか、でなければ、信濃へ出て、この天竜の渓谷を下ったわけである。野田城の攻撃中、病を発した信玄が、西上の企画を変更し、甲斐に軍を返したのも今頃である。伊那渓谷に点々と嘆いている梅の花は、雄図を翻した武人の眼に、どのように映っていたことであろうか。 (昭和二十八年三月)

私の夢

 風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です・第一回の原稿を渡した時、担当記者のM君が1風林火山」という題名に首をひねりました。いかなることを意味しているか、よく解らないので、小説の題名としては損ではないかということでした。そう言われると、作者の私も自信はありませんでした。しかし、他に適当な題も思いつかないままに二日ほど考えてみようということになりました。

 結局のところ、1風林火山」で押し切ることになりました。風林火山」が新国劇によって最初に上演されたのは、昭和三十二年のことでした。それまで1風林火山」という題名は多少わちつ奮落着がない印象を人に与えていたのではないかと思いますが、これが舞台に取り上げられたことで、すっかり安定したものになり、堂々と世間に通るようになったかと思います。この最初の上演からいつか今日までに十七年の歳月が経過しています。作者の私も十七の年齢を加え、新国劇も亦、劇団として十七の年齢を加えたわけであります。その間に「風林火山」は何回か上演され、その度に、より完全なものとして好評名漬しものの一つになったことは・原作者として何より嬉しいことであります。お陰で風林火山」もすっかり有名になり、その題名に首をひねるような人はなくなってしまいました。こんど何回目かの上演を前にして、それこれ思い合せると、まことに感慨深いものがあります。

風林火山」の主人公は武田信玄の軍師山本勘助であります。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかほ甚だ怪しいとされていますが、そうしたことは作者にとってはどうでもいいことであります・その存在に対してさえも甚だ韓晦的である一人の軍師に、私は自分の青春の夢を託しています。勘助は短躯で,指は欠け、眼はすがめで、頗る異相の人物であります。私はこうした山本勘助に生命をかけて高貴なものへ奉仕する精神を注入してみたかったのです。夢と言えば、信玄も作者の夢であり、由布姫も作者の夢であり・作中人物のすべてが作者の夢と言えましょう。それぞれに、まだ若かった私の夢がはいっています。(昭和四十九年五月)

「風林火山」について

 私は昭和二十五年二月に「闘牛」という作品で芥川賞を受け、翌二十六年五月に、それまで勤めていた毎日新聞社を退き、以後小説家として立っております。芥川賞を受けた二十五年から二十八、九年までの四、五年が、私の生涯で一番たくさん仕事を発表した時期であります。

 私はその頃、いわゆる純文学作品なるものも、中間小説も、娯楽小説も、さして区別することなしに書いていました。娯楽雑誌には娯楽小説を、文学雑誌には文学作品をと、需めに応じて小説を書いていたようなところがあります。折角、芥川賞作家として出発したのだから、純文学一本にしぼって仕事をして行くべきだと言ってくれる人もありましたが、しかし、中間小説は中間小説として、読物は読物として書いていて面白く、純文学の仕事とはまた異った魅力がありました。そういう点、私は余り窮屈には考えていませんでした。仕事への没入の仕方も同じであり、読物は読物で夢中になって取組んだものです。 長篇時代小説だけ拾っても、この時期に「戦国無頼」、「風と薯と砦」、「戦国城砦群」、「風林火山」などを書いております。今考えてみると、さして無理をしないでも、次から次へと作品最近この時期の作品を読み返す機会を持ちましたが、面白いことには概して読物雑誌や中間雑誌に発表したものの方が生き生きとしていて、作品として纏まっているものが多く、肩を張って書いた文学雑誌掲載作晶の方に失敗作が多いようです。三十年ほど経ってみると、文学作品にも、読物にもさして区別は感じられません。慌しく締切に迫られて書いたものでも生命あるものは生きており、正面から取組んで推敲に推敲を加えたものでも、生命ないものは、正直なものでむざんな屍を曝して横たわっていると思いました。

 ただ現在の私は、読物の形で小説を善くより、読者へのサービスをぬきにした形で小説を書く方に気持が向かっています。これは言うまでもなく年齢のためであって、私が老いたということでありましょうか。そういう意味では「戦国無頼」や「風林火山」などは、私の若かった日の作品であり、もう再び書くことのない、あるいは書くことのできない作品と言えましょう。読み返してみると、そうした眩しさを感じます。

 「風林火山」は二十八年から二十九年にかけて「小説新潮」に発表した作品で、いま読み返してみると、読者を楽しませると言うより、書いている作者自身がまず楽しんでいる作品と言えるかと思います。歴史を舞台にして、登場人物たちを物語の中に投げ込んで、それぞれの人生行路を歩ませています。主人公山本勘助に関する伝承や記述(「武田三代記」)はありますが果して山本勘助なる人物が実在したかどうかとなると、甚だ怪しいとしなければなりません。おそらく山本勘助という名を持った人物は武田の家臣の中にあったかもしれませんが、その性格や特異な風貌は「武田三代記」の作者の創作ではないかと、一般に見られています。

 私はその伝承の山本勘助を借りて、それを生きた歴史の中に投げ入れて、彼を自由に歩かせてみました。すると、彼をめぐって、到るところで歴史はざわざわと波立って来ました。その波立ちを一つ一つ拾って書いたのが、「風林火山」ということになろうかと思います。 昭和六十一年七月三日

「戦国城砦群」作者のことば

 私は戦国時代の地図を見るのが好きです。全国の、凡そ要害と呼び得る要害には必ず城が築かれるか、砦が設けられてありました。幾十幾百とも知れぬ城と砦の群れ! そしてその城砦の一つ一つには、悲惨と残虐、夢と野心と冒険1-そんな、いいものも悪いものもいっぱい詰まっていたわけです。私はこの時代をせいいっぱい生きた一人の若い武士を描いてみたいと思います。彼の持った烈しい性格は、彼に幾つかの城砦を経廻らせ、彼を幾つかの合戦に登場させます。作者は、いま、この戦国の若者に、いかなる場合も、怯者でないことを希うのみです。                     (昭和二十八年九月)

「風林火山」の劇化

 こんど私の小説「風林火山」が新国劇で劇化されることになった。小説「風林火山」は一種の騎士道物語であり、戦国女性の持つ運命の哀歓を主題にしたものである。しかし、これをいろいろの約束を持つ芝居の形にうつすことは、正直に言って、まず望めないのではないかと思っている。私は平生、小説は小説、映画は映画、演劇は演劇と考えている。殊に小説と演劇との関係は複雑である。こんどの新国劇の「風林火山」も恐らく私の小説とはかなり昇ったものになるであろうし・またなって当然である。

 原作者として、私は私の作品をどのようにでも料理して下さいと脚色者池波正太郎氏にお任せした。私は、小説「風林火山」がいかに新国劇調ゆたかな名演し物として、あざやかに変貌するかに寧ろ期待している。                   (昭和三十二年十月)

「風林火山」は書いていて楽しかった。作家にとって、小説を書くことは、大抵苦しい作業であり、私も亦、自作のどれを取り上げても、それを書いている時の苦しさだけが思い出されて来るが、「風林火山」の場合は少し違っている。楽しい思い出だけが蘇って来る。勘助、由布姫が自分から勝手に動いてくれて、うっかりすると筆が走り過ぎ、書き過ぎた箇処をあとから削るようなことが多かった。そのくらいだから、私自身、勘助も由布姫も信玄も好きである。取材のために何回か甲斐から信州へ旅行をした。勘助が馬を駈けさせたところは、どこへでも行った。自動車をとばしたり、自分の足で歩いたりした。このように、作者の私にとってこの作品が楽しかったのは、山本勘助が実在の人物ではなかったためであろうと思う。と言って、全く架空な人物かと言うと、そうとも言えない。たれでも山本勘助という名を知っているように伝承の中に生きていた人物である。実在の人物ではないが、人々の心の中に生きている人物である。

「風林火山」は前に新国劇で上演されているので、舞台にのるのは今度で二度目である。その意味では幸運な作品である。新派の方達の演ずる「風林火山」がどのようなものになるか、それを見るのが楽しみである。                  (昭和三十八年九月)

「風林火山」の映画化
私の作品の中で1風林火山」ほど映画化の申込みを受けたものはない。併し、何回映画化の話はあっても、そのいずれもが何となく立ち消えになる運命を持った。それがこんど稲垣さんと三船さんの手で、本当に映画化されるという幸運に見舞われた。しかも堂々と正面から組んだ本格的な映画化である・1風林火山」は今日まで待った甲斐があって、漸くにしてゆたかな大きな春に廻り会えたのである。

 稲垣さんと三船さんには以前1戦国無頼」を映画にして戴いたことがある。私の作品の最初の映画化であった。それから十何年経っている・最近稲垣さんと三船さんにお目にかかって感慨深いものがあった。1風林火山」は長い間稲垣さんと三船さんが手を差し出してくるのを待っていたのだと思った。それに違いないのである。                   (昭和四十四年二月)

「風林火山」と新国劇

「風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です。発表当時、多少の反響はありましたが、現在のように.風林火山″という四字は一般的なものではぁりませんでした。時代というものは面白いもので、いかなる風の吹き回しか一昨年あたりから、「風林火山」という作品が再び多勢の人に読まれ始め、テレビに劇化されたり、映画化されたりする機運にめぐりあいました。作者の私も驚いていますが、一番驚いたのは主人公山本勘助であろうと思います。彼の作戦家としての慧眼を以てしても、自分がいまになって脚光を浴びようと予想はできなかったことであろうと思います。次に驚いたのは劇団「新国劇」の首脳部の方々ではなかろうかと思います。新国劇によって「風林火山」が最初に拾い上げられたのは昭和三十二年のことですから、十二年ほど前のことです。脚色、演出の池波正太郎氏も、島田、辰巳両氏も、「風林火山」の名が今日一般化したことで、すっかり驚いておられるのではないかと思います。

 併し、作者の私は多少異った考え方を持っています。風林火山」の名が多勢の人に知られるようになったそもそものきっせて下さったためであります。十二年前上演していただいたお蔭で、「風林火山」は今日のように有名になることができたとお礼を申し上げたい気特です。 こんどその新国劇の「風林火山」が再び舞台にのることになりました。作者としては懐かしさでいっぱいです。(昭和四十四年九月)






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最終更新日  2021年04月25日 11時42分22秒
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