カテゴリ:山梨の民話 昔ばなし
遠野町と甲斐を結ぶもの
『遠野物語』 大洞家の祖は甲斐? 『遠野町誌』 波木井山 智恩寺(日蓮宗)
『遠野物語』は言わずと知れた民俗学の大家柳田国男先生の名著として現在も、 多くの人に親しまれている。 柳田先生の著は暇があれば目を通しているが、甲斐関係の事も多数記されている。 また柳田先生は、山梨県の伝承や民話の大家土橋里木先生とも親しくされていて、 土橋先生の本の序を書かれている。
『遠野物語』24
村の旧家を大同(だいどう)というは、 大同元年(806)に甲斐国より移り来たる家なればかくいうとのことなり。 大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。 二つの伝説を混じたるに非ざるか。 大同は大洞かも知れず、 洞とは東北にて家門またな族ということなり。 『常陸国志』に例あり、ホラマエという語のちに見ゆ。
『遠野物語』25
大同の祖先たちが、 始めてこの地方に到着せしは、 あたかも歳の暮れにて、 春のいそぎの門松を、 まだ片方はえ立てぬうちに早元日になりたればとて、 今もこの家々にては、 吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、 標縄(しめなわ 注連縄)を引き渡すとのことなり。
『遠野物語』69
今の土渕村には大同という家二軒あり。 山口の大同は当主を大洞万之丞(おおほらまんのじょう)という。 この人の義母名は「おひで」、 八十を超えて今も達者なり。 佐々木氏の祖母の姉なり。云々
『遠野町誌』 波木井山 智恩寺(日蓮宗)
遠野町第五地割二十九番地にあり、 日蓮宗岩手県宗務所である。 遠野南部氏の元祖波木井六郎実長は日蓮の帰依して自ら日円と号し、 身延山を寄進して久遠寺を草創せしめた由緒により、 日蓮宗に於ては実長を本宗外護第一の大檀那として尊敬されている。
建武元年(1334)実長三世の孫師行が北畠顕家に従って陸奥に下った時、 祖実長の法体の像をもたらし、 代々南部家に安置して崇拝追奠してきた。 これを卅四代行儀の時地方の日蓮宗信徒に与え、 信徒等は一寺を建立してこの尊像を安置しようと企てたが、 当時は新寺の創立が許されなかったので砂場丁に法華堂を作って安置した。
明治二十一年十月下野国安蘇郡佐野町妙音寺住職荒井寿日忍が遠野に来り、 信徒を収攬して法勢大いにあがり再び建寺の議が起こった。 その頃上総国夷隈郡湯倉村に智恩寺という寺があり、 寛永の初年(1624)律師玄葉の草創と伝えられ数百年を経たが、 まさに廃絶せんとしていたのを遠野の移転するの策を立てて請願し、 明治二十二年許されて新寺を建立した。 よって日円の尊像を本尊の側に安置して波木井山智恩寺と称し、 荒井氏はその師池上日高を推尊して永く波木井山開山とした。
昭和二十一年二月波木井実長六百五拾遠忌に当たって、 本山より「北身延」の公称を免許され、別席寺院に列せられた。 同年十月には本山より管長を初め南部日実師外十数師を招じて、 盛大な山門起工式が行なわれ、二十四年五月竣工、 本山より管長自筆の「北身延」の掲額が伝達され山門に掲げられた。
山門は総欅造り二十屋根、 楼門式仁王門で結構まことに壮麗である。 本尊十界曼陀羅、 日蓮上人座像(伏見宮邦家親王第六女村雲日栄尼公より寄せられたものという) 及び日蓮上人真筆の曼陀羅(建治二年九月日蓮より南部二郎に下されしものと 尚波木井公の尊像は本山の懇請により昭和二十一年本山に移転安置された。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月24日 06時38分31秒
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