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2019年06月17日
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山梨 昔話甲府、深町の船着き場 

 

むかしの富士川は多くの船が往きしていました。

 駿河の岩瀬から、山梨の鰍沢まで、下りは一日でしたが、上りは急流を遡るのは難業で三日かかりました。

そして、さらに笛吹川を逆行した高瀬舟は、途中から油川を経て濁川を上り、甲府の街の真中の深町町尻に着いたのです。

 今の笠森稲荷神社のところには、荒川三つ水門から水を引いた広い舟着揚がつくられており、

毎日四、五隻の曳舟が着き、積荷がさばかれておりました。

 干物や生き魚、うなぎが深町についたという話は人気を呼び、見物人が手弁当で押し寄せたほどでした。

塩は「吉字屋本店」で一手にさばかれ、うなぎは「八木養魚場」が扱って街のうなぎ屋で蒲焼に変り、

干物・昆布の類は海産物店の店先に、生魚は鮮魚商の手に移り、街を大いに賑わせました。

 

富士川の舟運は、束は石和の鵜飼橋、西は韮崎の船山橋にも着きした。韮崎宿の繁昌も富士川舟運のおかけで、

風のない時は川辺りを綱で引いたとのことです。馬の背なら塩なら八袋(約四十八㌔㍑)ですが、

高瀬舟なら三十袋は積め、毎目深町から着いた四、五隻の舟からは、かなりの生活物資が運ばれたのです。

 当時、舟運は唯一の輸送機関であり、大活躍をしていて、多くの人が関わっていました。

しかし中央線の開通(明治三十六年)は輸送機関の大革命を起こしました。

そのために千隻もあった富士川の舟が百五十隻に減り、さらに身延線の開通で深町までの舟もとうとう姿を消したのです。

 当時の船着場は深町の早川大作さんの前でしたが、舟運が姿を消した濁川辺りは、赤トンボの飛ぶ姿も、

なぜか淋しげなものがありました。現在は水量も殆どなく昔の面影はありません。

 甲府市の富士川は藤川とも書きますが、武田の時代、信虎の住む所から湧き出る水を富士川の源水としている古史料も見えます。

 身延詣でにっ利用した人たちも多かったと思われます。

 






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最終更新日  2021年04月14日 05時44分31秒
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