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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月29日
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笛吹權三郎の秘話と笛吹川の名の起こり

「おお、今夜も月が出た。そろそろ權三郎さまの笛の音が、また物悲しく聞こえてこようぞ」
「ほんにおかわいそうな権三郎どのよな。母君を慕う真心の一念が、ああして死んでしもうたあとまで、川の瀬に高麗(こま)笛を吹かせるとはのう」
 笛吹川に沿った万力から大野村(現山梨市)へかけての部落では、きまって月夜の晩には権三郎のことを話しあったあと「ナムアミダブツ」と唱えながら大きなにぎりめしをつくり、笛吹川に流して供養していた時代がある。
飢えを偲んで溺死した殿上人の子を悼んでしばらく続けられた仕来りである。
 時は後醍醐朝(一二八八~二二三九) の正中年中のことだ。鎌倉幕府を倒そうとして計画のもれた日野資朝は、日野俊元とともに捕えられて佐渡へ配流されたのち処刑された。
芹沢部落の古記録に依ると藤原北家流に属する藤原権三郎という少年が、母とともに父のあとを慕って三富村芹沢へ来たり、住んでいたとある。藤原北家流とは日野家を指すもので、女は三代にわたり足利将軍の正室として権力を
ふるったのは、日野富子などで知られるところである。
 この藤原を名乗るある殿上人の一人が、正中の変に加わって、京を遁れて芹沢部落で死んだあと、その殿上人の妾が権三郎を伴って、芹沢に世を忍ぶ身となったことからこの物語ははじまる。
 殿上人の側室「おせよ」は京をのがれて浪々の身を甲斐路に向けたのは京を出て数年目のことである。
「三富村の奥に名のある殿上人が隠棲している。」
こんな噂を耳にした母子は、胸膨らませてそこを訪ねあてると、不運にもその人はすでに故人となっていた。
「もはや望みは絶たれた。ここに住んでひっそりとお父上の墓掟を葬いつつ、帝(みかど)の世に復する機を待とうぞ」
「せよ」は権三郎を相手に、夫の部下でいまは百姓に身をやつしている日原十左衛門を心の頼りに、子酉川(ねとり)の岸辺にある方十六間という巨大な岩陰に小屋を建てて身を落ちつけた。なれぬ旅路の果てに草深い奥秩父の山奥で、細々と暮らしをたてていた「せよ」の心に常に浮かぶのは、華やかな京の暮らしと、恋しい夫の面影であった。こんな傷心の「せよ」をいつも慰めてくれたのが権三郎の吹く高麗笛の音であった。
 権三郎は身の守りにとて兜の下に潜めて置いた一寸八分ほどの兜不動尊像を大岩の上に安置し、その前に座して、希望のない山峡の明け暮れに、笛を唯一の慰めとしていた。芸に長けた一家の天性を享けた権三郎はどんな難曲も吹きこなし村人たちにも潤いを与えていたので、村人たちから「笛吹き権三郎さま」と親しまれていた。
 「せよ」が望む京都では後醍醐天皇が隠岐に移され、ますます京へ帰るのぞみは絶たれた。こんな寄る辺ない母子に聞くも無残な死が相次いでおとずれようとは……
 そのころの子酉川(ねとりかわ)下流は、まったく治水の策など講じられていない時代のことである。
 沿岸の部落は、大雨の降る旅に洪水が襲った。その洪水が権三郎母子の住む小鼻を押し流したのはある初秋の夜半のことだった。幸い水魔から逃れた権三郎は、必死になって母の姿を捜したが、洪水も治まり、ふたたび笛吹川の水が青く澄みかえっても母の姿はついに発見できなかった。
 天涯孤独の身となった権三郎は、母の姿を求めて夜となく昼となく笛吹川原を上り下りして笛を吹きまわった。初めのうちは同情していた村人たちも、この気違いじみた母恋うる権三郎を次第にうとましく思うようになった。
 真黒に日焼けして働く若者たちにとって、色白美男の貴族のご落胤は、働くことの嫌いな怠け者に見えたのかもしれない。あまつさえ権三郎の面倒をみていた十左衛門までが、
「いくら生死を共にしてここまで遁れてきた主の御子とは申せ、あのように学問武芸にも身を入れず稚児のように母を恋うて笛を吹き暮らしていては、時いたって京へ連れ帰っても、ものの役には立ち申さぬ。面倒みてもせんない子よな」
と愛想づかしをしてしまった。
 権三郎は浪々のうちに成長したとはいえ、殿上人の御子であるという母のもつ誇りが権三郎を大らかに育てたうえに、天性の働くことなど考えなくても、立派な殿上で多くの供にかしつかれ威敬されていればすむといった貴族的素質がそなわっていたので、母を失った権三郎は、何一つ自分の身を保っていく生活のことなどは考えおよばなかった。
 しかし権三郎とて人の子、ようやく周囲の目が冷たく自分の背に注がれていることを知ると、ますます母恋いしさに十左衛門の元へも寄りつかなくなり、不動岩の小屋にこもって人目をさけて笛を吹いてすごしていた。糧を得ることをしらぬ権三郎は、飢えてもひもじさを顔にあらわさず、食を乞うようなこともせず、命果つることさえも念頭におかずに笛を吹きつづけていた。彼の命を支えていたものはわずかに水と木イチゴのような木の実の類にすぎなかったので、いつしか権三郎は骨と皮ばかりにやせ細ってしまった。孤児となった権三郎の心のすべてを占めているのは母の面影であり、母へのひたむきな愛情であった。
「権三郎や、美しい音色だこと」
 懐かしい笑顔で母が呼びかけてくるものと信じて、日夜川原をさまよっていた権三郎の姿がぷっつりと消えてしまったのは、そろそろことしも洪水の襲ってくる九月初秋のことだった。
 すっかり世間から見放された権三郎ではあったが、姿が見えなくなると、にわかにその身を案ずる声が高まり、
「手分けして探しだそう」
「高貴なお方の御子じゃ。村中で面倒をみるのが当然じゃわい」
とばかりようすが一変した。
「おかわいそうな権三郎さま」ことに村の若い娘たちは、異端者として近づくことをゆるされなかった少年ながら、心の底では「なんと美しく高貴の顔立ちをしたお人よ」と、それぞれ憧れを抱いていたので、ひとしく涙を絞った。こぞって村人が川べりをたずねまわると、
「おお笛を吹く少年とな。それならせんだって、丸太のいかだに乗って笛を吹きつつ川を下っていったはずじゃが」
 さらに下流の方を訪ね訪ねて万力、大野を経て小松の川原にいたると、日川と重川をあわせる三川合流点に、権三郎の乗っていた筏が漂着していた。そのあたりをいくら探しても権三郎の姿は見えず以来妖怪がおこるようになった。
夜な夜な笛の音が
「おっ、あれは権三郎の笛の音ではないか」
 十左衛門は洪水もおさまり、ほっと一息いれて晩の食膳にむかっていると、初秋の月光に誘われるように、じようじょうとした笛の音が流れてきた。十左衛門は顔青ざめて箸をとりおとした。
「だれか笛の音のするあたりにでかけてみてこい。もしや権三郎君ならばすぐさま連れかえって、あたたかい食事を与えよ」
 十左衛門は下僕に命じた。主の御子を飢死にさせたことに対し、ひどく心を傷めていたからである。下男はまもなく息せき切ってもどってきた。
「旦那さん、わしが川原へいったときには、もう村の者たちも権三郎さまではないかと案じて集まっておりやしたが、権三郎さまの姿はどこにも見当たらねえので戻りやした」
「何と、ではあの笛の音は?」
「はい、笛の音はたしかに聞こえるが、権三郎さまはいらっしやらねえだ。村の衆は権三郎さまにひもじい思いをさせたのでその恨みで亡霊が笛を吹くのだといって、みんな逃げちまっただ」
「だがあの笛の音はたしかに権三郎のよく吹いていた聞きおぼえのある曲」
 十左衛門は、突然裸足のままその笛のする方向に、脱兎のように駈けていった。
「ゆるせ権三郎ぎみ、この不忠なる十左を」
 姿は見えねど高まる笛の音を前にして、十左衛門は両手をついて悔恨の涙をしぼった。
 飢えた権三郎は、深い子酉川の淵に、足をとられて沈んでしまったか、世をはかなんで身を投じたか、いずれにしてももう権三郎の気品に満ちた色白の優雅な姿をみることはなくなったが、笛の音だけは月のある晩ほかならず聞こえてきた。また、そんな晩には村人たちがおにぎりをむすんで川へ流したともいう。

笛吹川の名のおこり

 手品のあと、手の内をみせるようだが、さいごに笛吹川の名の起こりについて調べてみよう。笛吹川は三富村芹沢に一枚のこつている古文書をみると、むかしは芹沢部落の下方にある不動尊岩から上を子酉(ねとり)川といい、下流を笛吹川と呼んでいたとある。東電の地図ではナレイ沢までを笛吹川、上流を子酉川と記してあるが、古老の口伝にたよると上流は子酉川で不動尊岩下流が笛吹川だというご説である。
 甲斐国語をみると、笛吹川は方位子より発し九曲して酉に流れるので子酉川あるいは昔は淵多く、瀬が笛吹くように聴こえたからなどみえる。
 さらに笛吹川は、支流に「琴川(別称帯締川は山伏が琴屋敷より金峰山に登ったとき沐浴して帯をしめたからなど)」・「鼓(つつみ)川」のあるところから、日本の古代楽器、笛、琴、故に因んでつけられたという、頷ける説もある。鼓川は別に堤(つつみ)川とも書く。これは現牧丘町小田の山の城主だった安田遠江守義定(在世一一三四~九四)が堤を築いて川の水を貯えておき、いざ敵ござんなれというときは、堤の土手を切り崩して人工洪水をおこして敵の人馬もろとも押し流して一挙に殲滅するため堤を造って置いたからという説もおもしろい。
 さて権三郎の墓が石和町近くの小松の長慶寺にある。いまもって三富芹沢の部落の人達はこの墓の供養を怠らない。ではこの権三郎を東山梨郡誌から拾ってみる。内容は天正五年(一五七七)七月二十日。三富村上釜口の権三郎が笛吹川に溺死し、その骸が小松に漂着したので長慶寺に葬り、いつも香華が絶えないとある。
さらに無量山長慶寺開山の由来には、永禄不年(一五五八)三月十七日に、武田信玄が巡察のみぎり、権三郎を済度した賞として長慶上人に金欄の袈裟を賜ったとある。しかしこれではまだ権三郎が溺死しないうちに、(永録は天正より二十年前)祟りを及ぼして上人が済度し、信玄から恩賞をいただいたことになる。さらに上人の権三郎を済度した徳四方に聞こえて村の有士よりあって長慶寺を建てて長慶上人を開山にしたとある。

 甲斐国志に次の記録がある。

天正五年七月十六日、三富村芹沢の少年が洪水で溺死し、死体の漂着した小松長慶寺に葬り、いまそこに塚があるといったところから後世の伝説であることはたしかである。芹沢にある権三郎の不動尊のうしろに、
「山おろし雪の白波ふきたてて、子酉流れる笛吹の川」
とある。夢想国師が、トサカ山から広瀬へおりてきたときの歌ということだが、国師の著書には何一つ見当たらぬが、上広瀬にある国司山西光寺の開山となっているとしたら国師年表に加わる新しい事実だ。
 その他三富の伝説をひろうと前記の国司山西光寺である。いまも上広瀬西側に「寺平」「鐘撞堂」という地名がある。広い石垣のあとから寺跡ということがはっきり分かる。西光寺は夢想国師が国師(司)岳から砥坂(とさが)山の諸山を経て、ここに到り霊感をうけてここに一宇を建効したという由来だ。三富村の三の橋から上釜口ではむかしから「寺なし蔵なし」ということわざがあって、寺を建てても災いあって、うまくいかず、いまもって蔵がなく寺が建たぬというところ。西光寺のあったことはあきらかでも、こんないわくもあってつぶれてしまったものだろう。
 なお芹沢に多い日原性は自野資朝の義兄日野道義の末流とも、日野河内守?の末ともいわれる。
 七つ釜不動尊芹沢の不動岩(いまは区で処分してない)を前不動、七ツ釜を北奥宮といった。別に筑江山頂に大国主命他神を奉る山官もあった。
 おもしろいのは女郎星が三軒あったという新地平である。ここには七、八軒の部落がある。いつのころかここに女郎屋敷があって女郎がいて春をひさいだという。これは地名からして存在したことはあきらかだ。山伏や行者が飛竜権現、将監峠の午王法印(熊野系)砥坂山の霊山を回って修行のため往来の激しいころ、武田金山の鉱夫、山伏を相手にした遊女だ。





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最終更新日  2021年04月23日 06時05分11秒
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