カテゴリ:泉昌彦氏の部屋
☆ 鍵打山と玉峡山の水晶 ☆
甲州宝石ものがたり 泉昌彦氏著
白州町 下教来石から流川に沿って約三時間、南アルプスの山麓にある。流川をはさんで右が鍵打山、左の丸い尾根が玉峡山である。 この一帯は鬼窪という所から四キロ四方には、信玄の埋蔵金があるということで、いまだに古老の間では「探し出したら必ず金の出る山だ」と言伝えている。五、六貫の鉱石から二、三百匁の金がとれなければ勘定にあわなかった武田時代、山崩れで金山はいったどこなのか。古い文献では良質の水晶がとれた玉峡山も又山崩れで埋もれてしまったとある。明治五年新鉱山法が発令されるまで、水晶は掘ることを禁じられていただけにどこかに水晶鉱も埋もれているのだ。
山造りで水晶発見、 いま玉峡山や鍵打山という名前を持ち出しても土地の古老さえ知らない。幸い山に明るい人を得て案内をうけたがこの人は山師として山道を造っていたとき、割れば中に水晶が結晶している原石がいくつも出て来たと語っているとおり、果してその山道を造ったあたりが埋もれた水晶山であった。
白須の公林 白州町の国道20号線で神宮川を渡ると、所々に白須の公林松林がある。今は工場があったり松枯れで倒壊しているものが多くみられる。歴史的にも古くその昔は釜無川沿いに良質の木材産地であった。宗良親王の歌にも詠われていて、今もその足跡が白須広場の奥に石碑がある。また戦争後の復興にも多くの切り出されてしまった。この松林は信玄によって育てられたいわゆる「白須公林」といわれるもので、いま当時の松は前沢の林家商店前に二本残っている。信玄時代には松茸の産地でもあった。 この国道沿いは古来南アルプスの深い山腹をひかえ、山崩れや山津浪や鉄砲水が押出した地域で今でもコンビニの右側や所々に大きな石があり、当時の面影が残っている。 こうした洪水や山崩れのため有望な黄金山も水晶山も、すっかり厚い土砂に埋もれたことも語られている。
山梨県 水晶の歴史 泉昌彦氏著 一部加筆
大水晶のカマを発見 かつて私の本を読んだ人々が金峰山を中心に探し回り、ついに小川山で水晶のカマを発見した。昭和四十五年の八月から晩秋まで、これを聞きつけた山男達で小川山ではひそかに水晶さがしが行なわれていた。 「なかにはひとカマで五十四キロもある大水晶を見つけた人もいる」(金山山荘 主人) この小川山やハ幡山、水晶峠などは、山に明るい山小屋の人たちが、暇をみて時々出掛けて土産に売るていどの水晶の置物を拾っていた所である。 もっともすでに金峰山川や川端下では、水晶を拾ってくらしを立てていた人もいたくらいで色水晶のよいものが拾える場所だ。
上黒平の大水晶 御岳昇仙峡から車でも一時間以上はかかる上黒平のある老人の家を訪ねて見せてもらった大水晶は六角柱状の高さ七十センチ、根元の太さは大人の足くらいある見事のものであった。老に五十万円で売ってやろうと言われ、寂れた財布を思わず押えて子供のように首を振って目を丸くしたが、こんなものなら他にもいくつかあって、いかに金峰山付近から豪華な大水晶がでるかに今更おどろかされたのである。 もっとも、老の話だと、金峰山の水晶峠、ハ幡山、上黒平の向山からは六角柱状で象牙ほどもある長くて大きいものがよく出た。これで五寸玉の水晶玉をつくったいうから、崖崩れで数十貫の大水晶が出てもふしぎではない。須玉川というのは、奥の金峰方面から流出した水晶から出た名という。
大きければ千万円にもなる水晶 ある山人は 「双晶という水晶を拾ったら大儲けするよ。この向山で拾った一つと、遠く乙女鉱山で拾った一つとを合わせると、必ず九十 度の角度をつくってぴったりとくっつくという不思議のものだ。わしも二つほど持っているがまだ相棒がみつからん。もしみ つかればほれこんな小さなもので一組一万や二万にはなる。それも引っぱりダコだ」 とみせてもらったものはわずか四センチくらいの高さのものだった。 この双晶とは一般に六角柱状として結晶していない板状のもので薄くて将棋の駒か公卿や神主のもつ笏(しゃく)に似ている。 さて水晶という語源について調べてみると、水晶は明 一泊初年の新造語である。
今から九百年程前に成立した大鏡巻三には、閑院大将朝光の弓についているきらきらした水晶について 「ことの他きらめき給ふ故篠の水精のはずも、この殿のおもひよりいでたまへるなり云々] と、水晶を水精と記している。
江戸時代のさまざまの物象をまとめた和漢三才図絵でも水精とある。同書は水晶の産地を真先に加賀をあげ、ついで日向、豊州、備州としるしながら、日本一の大水晶を産した甲州を落としているのはおそまつの限りだ。
水晶の鏃(やじり) 水晶が矢尻に使われたことは出土品が証明している。いわゆる神代として伝える日本書紀による上代には魔除けの玉として神宝にされていた。数千年前、裸・裸足で猪狩りをしていた原始人が、狩猟の矢尻にして鹿の目玉をねらって木品の鉄砲玉をぶちこんだものだ。 日本書紀などのむずかしいものはしるしたくないが、至る所に「玉作り」「玉造」などのことばがでてくる。 書紀巻一に「玉造りの遠祖イザナミ尊のみこ天明玉(あまのあけだま)が作れるやさかにのまが玉……」とある。 又「玉作部(たまつくりべ)の祖豊玉には玉を造らしむ」などから玉を造った上代のことがうかがえる。 神代といわれる上古には、マガ玉やクダ玉は動物の矛でつくられ、やがて宝石で作られるようになったが、みなこれは貴族王族の装身具というより魔よけの呪術的のものであった。これも王者貴族の死体には、よろいのように糸でつづったマガ玉クダ玉でおおって葬った。
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最終更新日
2021年04月22日 05時03分19秒
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