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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月05日
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カテゴリ:泉昌彦氏の部屋

玉宮の竹森水晶山 日本一の大水晶

 

 塩山市王宮にある。バスで降りた所にある玉諸神社里宮には、高さ二メートル、胴室わりもニメートル内外の大水晶がある。あるといってもご神体だ。もと奥宮にあったが、泥棒が盗み出したのでここへうつしたものだ。祭神はいまの宝石加工業者の祖神、天明王命(あまのあけたまのみこと)だ。旧王宮村の町名からして、日本最古のいわくがある。

 

屑の折れ水晶

竹森山(現甲州市)には折れた六角柱状の水晶が沢山うもれている。これを拾うとみやげ晶加工に高く売れるということだ。付近の山畠、河川からはいまも小さな置物にするくらいのものはひろえるのだから、月の夜にはお山が輝いたという伝承もまんざらでもあるまい。

 

とび出した大水晶 

いまから千二百年も昔のことだ。幾日も降りつづく大雨のあと、王宮の竹森山が「ゴー」ととどろき、鉄砲水が押し出して来た。村人のひとりが様子をみにいって腰の蝶つがいを外さんばかりにおろくべきものをみた。

  「ヒエッー、水、水精の加化けだあー」

  村人は、土砂にまじって高さニメートルあまり、胴の大さもニメートル近い六角柱状の水晶がころがりでているのをみておど

  ろきのあまり村へとび帰った。

  「お山はすべて神のおわすところぞ、このたびの大雨は、埋もれていたご神体が世に出たいご一念からであろう。さあ皆の衆

行って拝むべえ」

 村の物しりが言うことばに、

  「うんだ、うんだ。山伏をたのんでかぐらでも舞うて祭るべえ」ということになった。

 

このご神体は、神代の昔、豊玉、太玉、天明玉命のご再来ぞという結論によって竹森山へ神社を建てたのが、玉諸神社の縁起である。このうわさはたちまち国衛と中央を結ぶ宮人によって宮中に達した。さっそく京より神祇官が派遣されて国幣社に昇格した。国幣社は国費で、官が国から給わる町をささげて祭ることである。前社はこなしていまから約千百年あまりに延喜式にのる神社となった。

 そののち永い間、神さま扱いにされた大水晶は、自然の威敬物を神格化したたわいもない偶像として、毎年盛大に祭られて来たのである。

 ともかく水精といわれた江戸時代の半ばまで、村民は一般に水晶を掘って加工することはゆるされなかった。さりとて美しいものは誰でもほしくなる。掘出して宝石として珍重したことはうかがわれる。これで甲州の水晶は乱掘されずに明治まで保っていたのだ。それを裏付ける文献は甲斐同志や古い文献に示されているが、伝承の上でも信じられるものがある。

 

土のうのかわりに水晶俵

御岳昇仙峡のロープウエイのある近所は荒川上流に沿ってって大雨でも出るといまも洪水や鉄砲水の出そうな所である。この付近には、昔から二、三十俵の俵へつめた水晶が埋蔵されているという伝えがある。六角柱状の大水晶なら一俵時価百五十万もするだろうから二十数俵でざっと四、五千万円である。

 

お止め山

 

いま変じて乙女高原とよばれ、乙女鉱山といわれるようになった牧丘町の水晶山は、信玄が水精を掘ることを禁じたから「御止め山」が本来の名だ。

 金峰山は特に御止め山として厳しい天罰が下るという伝承のもとに、金峰山の土を里へはき下ることは禁じられ、登山する山伏たちは必ず数足のわらじを持っていき、下るときは順に古いのを脱いで新しいワラジにはきかえて下ったという。もっとも、ある山伏の一団が山小屋へ脱ぎすてていったワラジをいろりで焼いたら、その灰の中からひとにぎりも砂金がでて来たことから、大きな砂金の洞窟をさがし出したというはなしさえある。

 金峰山方面は金銀もとれたので、そうした掟をつくったのだろう。ともかく国のはじめから水晶は呪術的威敬物とされて発掘、私有は禁じられて御止め山の山名を生んだ。 一江戸幕府にいたっても大々的には運上金を払っても掘出すことはできなかった。昇仙峡の方面にも沢山の大水晶がでた。山伏の一団があちこちに露頭していた水晶を拾って持ち帰ったこともしるされている。大体昔の人間の方が貝の化石や珍石には敏感で、競って集めたことは多くの文献が示すとおりで、江戸時代まで金峰山や黒川、鶏冠山、雲取山といった山々へ信者の集ったのは、あるていどの信仰にもとづいていてもこの甲州の珍石や黄金のはなしに吸いよせられたことはうかがわれる。

 昔は余事を金風山といって、こがね、寄草、珍石を産する神の山として「玉塁」とみなしいみずがき山を「瑞塁(みずがき)」とみなした。いまは古名を失しなったのだ。

 いつの世にも盗人はいたが、こうしたきびしい信玄公いらいの掟を守る村人たちは、道ばたに頭を出した大水晶や、山崩れ、鉄砲水であらわれた水晶は、江戸時代まで俵につめて保管し、名主から名主に引継がれていた。おそらくまだ水晶が加工されて売出されるいぜんの江戸時代の初期であろう。

 御嶽は連日の雨で荒川がはんらんした。

  「ジャン、ジャン、ジャン」

 けたたましい半鐘に集った村人たちは、水かさが増す荒川べりに駆けつけて、家屋敷、田畠を守ろうと、必死に土砂を運んで土嚢をつんでいた。おりしも、「ゴーゴー」と、いう無気味な山鳴りがおこったかと思うと、いまのロープウェイのある山からおびただしい土砂が崩れて来た。

  「ビヤク(山崩れ)だ、ビヤクだ。家がつぶされるぞ」

 村人達は、荒川べりから足を転じて部落へ走った。

  「土のうだ。土のうがなければ部落がみなやられるぞ」

 しかし心は焦れども、人手も少いので急に土のうが間に合うはずはない。長雨で押し出してくる泥水は家屋敷を容赦なく埋めるいきおいだ。

  「そうだ。こんなときは神さまのお力にすがるほかはない。さあ早くお上から預っている水精の俵を積み上げろ」

 窮余の一策で名主は、部落の蔵に保管して置いた二十数俵の水晶をもって土嚢がわりに使うことを命じた。

緊急の場合に水晶俵を使っても、後日掘り出すこともできる。「それっ」と、部落民は水晶俵を土嚢がわりに積み上げる作業にとりかかった。一俵の水晶は重くて散人の力を要した。

 鉄砲水を除けるために重い水晶の俵は、大いに役立ったので一息いれた部落民は神の玉塁によって家屋敷は守ってもらえるものと喜びあったのも束の間、ふたたび起こった山崩れで、水晶の玉塁はあえなく土砂の下に埋もれ、家屋敷も又流されてしまった。

 「水害に土のうがわりにした水晶の俵は、この部落のどこかに必ず埋もれていますが、もう道路もでき、その上に家も

建ってしまった今はどうにもなりません」

 部落民の伝承を聞いていると、この埋蔵説必ずしも根も葉もないことではないと、筆者は信じた。というのも文献の上で明らかに、露頭していた水晶は必ず村役が員数をしらべ上げて、お役人の検査をうけていたからである。

 

 以上のように、金峰山周辺からでる水晶は、ようやくその採掘をゆるされるようになったのは江戸時代もずっと下った弘化四年の古文書で示されている。

この文書は、上黒平向山水晶坑より出る水晶を永拾貫文で採掘させて欲しいというもので、この文献でいくと、すでに十九年前にさかのぼる文政十三年(天保元・一八三〇)と下って天保中にも冥加金を上納して試掘していることがあきらかだ。 

のち明治~大正にいたっては各地で大々的に掘出してついに底をつくようになってしまったが、加工品にするほど大量発掘はできなくなったにしろ、まだまだ小規模いわば登山者が拾っていく程度の楽しみはどの山にも遺っている。

 また前記小川山のように新しい水品鉱を山男が発見したなどのこともおこるのは、まだ水晶が埋もれているということだ。水晶もあまり地下には発生せず金、銀のように多くは地表に近いところに産するのが常識になっている。しかし深い坑道掘りを行っている乙女鉱山では、砂石の採石中、時々すばらしい六角柱状のものが出てくる。採掘人たちはこうした見事の水晶が出てくると大変に張合いが出てくるという。筆者も乙女鉱山で仲々な上品の置物か二つ得た。

 

 王宮の水晶山は、日本でも最古の水晶山として、その巨大なご神体とともに掘り出されて、まったく全山ガラの山と変ってしまったが、この間ご神体が盗まれるという珍事がおこった。明治初期のことだ。

村人が竹森川のへりを歩いていると、滝つぼから異様なものが光を発した。

「なんじゃろうや」と、水の底をためつ眇めつ見ると、これはしたり、大水晶も大水晶たまげるようにデッカイやつだ。一人の手に負えるしろものではないので村人をよんで来たところ、

 「おい、あれはご神体ではないか」

 「おつ、そういわれてみるとまさしくご神体じゃ」

 みる者は目がつぶれるという伝承があるが、村人たちならご神体も一度や二度は拝んで知っているから大騒ぎになった。以来里宮へ移されたものだ。村人の伝えによると盗人は、欲になってご神体を盗み出したまではよいが足がすくんで前へ進まずここへ投げこんでいったということだが、肝腎の六角柱状の透明した頭部は約一尺五寸ほど待去られてなくなってしまった。神様は頭をとられて胴ばかりになってしまったわけだ。従って胴は濁った珪石状のもので絶品とはいえないものである。しかし玉宮の竹森山一帯の山畠、河川にはいまも水晶の床にやさしい六角透明の水晶が光っていて、拾ってくる楽しめがある。

筆者はこのほか竹森山から平沢峠へかけて、南は平沢峠の山路の散策が好きで執筆のつかれを癒すのに格好のハイキンダコースとしてよく歩きまわる。勿論矢尻などがあればという期待をもって、下萩の崖淵ちから千野山路を歩き周るすきにも原始人の生活のあとうを嗅ぎ出すことを忘れられないが土器片は手に入っても、石器類はまだのぞめない。                          

 柳沢峠から三窪高原へ……さらにヤブこぎになるが、かつて黄金山として栄えた鈴庫山への尾根が続いている。いまはすっかり山地図の上からはコースを除かねばならなくなった。ヤブは背たけに近く、露で全身がズブぬれになることもある。      

しかし鈴庫山からひと眺めにできる甲府方面の景観はすばらしい。この山からすぐ下にみえる沢には、かつて砂金が無限にキラめいていた。玉宮の黄金沢はすでに武田氏以前に採集されてしまった気がする。眼下にひらける山村王宮は、上代は砂金が煌めき、又水晶もさまざまに五色の輝きを放っていたものである。

 甲州の原始人が、遠く信州の和田峠までいって矢尻にする黒曜石を運んだなどという飛躍した推理は無限にある。

こうした面で、千野山路の散策はたのしい。いつかは原始人の使った水晶の矢尻が筆者の手に入るだろうと信じている。王宮付近は平沢峠へかけて変った宝石も発見されるので、まだどこかにという期待はある。

 






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最終更新日  2021年04月22日 04時52分50秒
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