カテゴリ:山梨の民話 昔ばなし
奈良田 西山温泉 いいつたえ
西山村総合調査報告書抜書 著者 植松又次氏著 (一部加筆)著作年次不詳 略歴 植松 又次 (うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月15日 - 2006年(平成19年)6月22 日) は、山梨県の郷土研究を行う。 略歴[編集]. 山梨県北巨摩郡津金村(現在の北杜市須玉町)に生まれる。 山梨県師範学校本科一部・同校専攻科を卒業
南巨摩郡早川町には、上湯島と奈良田の二か所に温泉あるいは鉱泉が湧出している。 上湯島にある西山温泉は早川町西山支所の北方約三粁(以下、㎞)、早川と湯川との合流点近くにあり、奈良田鉱泉群はさらにその北方三粁に当る奈良田部落の周辺に分布している。 身延線身延駅からはバスで富士川に沿って早川橋まで行き、そこから早川の渓谷を辿って約二八㎞上流へ遡らねばならない。現在では奈良田部落までバスの便があるので、甲府からは約四時間かかるが、静岡行の急行バスで早川橋へ、そこで奈良田行バスに乗り換えれば温足場に到着する。 甲州で[湯]といえばこの西山温泉を指すほど昔からくまなく知れ渡っていた温泉で、胃腸病に特効があるといわれるため、僻地に在るにもかかわらず、交通不便の時代から浴客の数はすこぶる多かった。 最近では早川奥地の電源関係や、総合開発計画等から道路が整備されたので、かつて甲府盆地との交通を阻んでいた温泉地帯の東方に連なる山越えの難路も、今はただ語り草として残るのみで、前記のごとく直通バスが運転されるようになったので、観光面からも重視されるようになった。
西山温泉の起源についての伝説
その昔藤原真人が故あってこの地方に流浪し「柳が島」に住みついた。当時この辺一帯は概ね猟を生業とし、農業などは副業としていた時代であったが、広く田畑を開墾して農を奨励し次第に小部落を形づくるようになった。 その後、真人は土地の娘を娶り双子を挙げ、兄を四郎長麿、弟を六部百麿と名付けた。ある時二人は狩猟のため山深く分け入りたまたま湯川の畔にさしかかった時、岩の間から盛んに熱湯が噴き出しているのを見付けた。試みに入ってみたところ、意外にも神気炎然、四肢軽快、今までの疲れもすっかりなおったので大変に驚き、また喜んで、早々道を切り開き湯壷を造りなどして、近隣に伝えたのが文武天皇の慶雲二年(七〇五年)三月のことであった。医薬らししものの無かった時代のことゆえ、病弱に苦しむ人々は無理をおしても集まって来て、入浴する人々も年ごとに増えるようになった。天平宝宇二年(七三八)のことである。 孝謙天皇がご不例のため吉野にお移りになられた時、この山の霊泉が夢枕に現れ、はるばるこの地に行幸され、二十目余りですっかりご全快あそばされたとも伝わっている。 深沢輝一氏所蔵の資料(覚)によれば、 奈良法王様御越し被遊候節は九百余年と申傳遊候 法王様住奈良田と御申被候に付其故奈良田と申傳候 とあり、なお続けていわゆる奈良田の七不思議の一つ「塩の池」についても 塩不自由な御暮被成候具故塩水御座候 また 法王様御屋敷三十間四被成候方櫓あり虚空像様。山天狗様。天狗様、 この三人に牛皇径・言言平言回士方やくらありこくそう(古今蔵)様 御供被成候 公郷段々屋敷有之候 などと秘境奈良田に関連する滑稽無稽とも思われることなどを、まことしやかに伝承されているが、兎に角海道一の霊湯として。地中深く熱湯の湧出するを見た昔の人々の気持ちには、まことに微笑ましいものがある。
早川の言い伝え 奈良王様 土橋里木(つちはしりき)著『甲州の伝説』
早川からコーキ口上流に逆のぼると西山温泉に達する。傷ついた野猪が湯気の立つ谷にたびたび入り、全快するさまを見て狩人がこの湯を発見したと伝えている。 西山からさらに二キロ北上すると奈良川で、ここには孝謙女帝がご遷幸せられたという不思議な云い伝えが残っている。 人皇四十六代孝謙天皇は、玉体に御悩みがあった時、甲州早川庄湯島郷に霊湯ありとの夢のお告げにより、吉野をご発與、天平宝字二年(七五八)五月この地にご到着、仮の宮居を営み、温泉にご入浴に旬にして全快なされた。天皇はこの地を甲斐の四郡外として一郡一村とし、山代郡奈良田村と称し、およそ七年間ご遷あらせたが、天平仁神護元年(七六五)ふたたび南都へご遷幸せられた。 その後村人は天皇の徳を慕い、皇居の跡に一宇を創建し、天皇の尊像を彫刻してこれを祭り、今も奈良王様と呼んで崇めている。 孝謙天皇御遷居のため、奈良田には様々な奇瑞が現われたが、七不思議もその一つである。 一、御符水(諸病に効く) 二、塩の池(塩分を含み、味噌醤油の助けとなる) 三、檳榔子染池(衣料を染める) 四、洗濯池(洗えば衣類の汚れが落ちる) 五、片葉の芦(片葉の芦がみな奈良の方へなびいている) 六、七段の村(天皇の仮宮から早川まで七段あり、奈良の七段に似ている) 七、二羽がからす(天皇の愛護により鳥獣は一番となって住み、今も神社には二羽の鴉がいる。
昭和三十一年、県営西山発電所ダム建設等のため、七不思議のうち五つは消滅し、今は御打水と二羽鴉が残っているだけである。
昔、奈良田の吾平という若い曲げ物職人が、保村へ仕事に行き、そこの琴路という娘と恋仲になった。その後琴路は二〇キロの山道を越えて、毎目吾平のもとに通って来る。吾平は人の噂を恐れ、奈良田と保の中間にある別当代峠で二人が出会うことにした。しかし吾平は一人息子で、彼の父親は他所者との結婚を固く禁じたから、吾平は夜出て行くことができなかった。 琴路は夜の峠でいくら待っても吾平が来ないから、奈良田まで足を延ばしてふたたび奈良田へ通うようになった。 女の情熱が恐くなった吾平は、峠の丸太の一本橋に鋸を入れ、それに上がれば折れ落ちるようにしておいた。その夜琴路は峠の丸大橋を通ると、橋はたちまち折れて高い断崖を落下し、十九歳の乙女の命は谷底に消えた。一方吾平も遺書を認め、村はずれの断崖から早川へ身を投げて二十五歳の生命を終えた。 早川の水は吾平の死体を別当代峠の下まで運び、峠から落ちた琴路の遺体と一緒になったという。村人は二人を憐れんで碑を建ててやり、別当代峠は琴路峠とよばれ、琴路の落ちた崖を「琴路のがれ」とよんでいる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月18日 05時44分41秒
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