カテゴリ:山梨の民話 昔ばなし
湖底に沈む秘境奈良田
<「歴史読本」昭和36年8月号 梅原肇氏著> ----光謙女帝と道鏡が湯治にきたという伝鋭のある「奈良由」を訪れてみた---- 山の中の離れ小島 日本の数ある秘魂の中で奈良王朝の風俗をつたえ、光謙女帝と道鏡が八年間も湯治をしていたという伝説のある山国・甲斐の秘境「奈良田」が、近年うちつづく台風の被害と防災ダムの建設でまもなく姿を消すことになり、全部落が移転騒ぎでわいている。 「秘境」という名前が示しているように、奈良田への道はきびしい。中央線の甲府か東海道線の富士駅から身延線で入るが、やがて眼前にひろがる南アルプスにかすんだ山々が見えだすころ、 あの山系のちょうど南麓にあたりますかな. 土地の人でも、名前は知っていますが、登山家か、 よほど物好きな人でなければ行ったという人はないでしょう。 なにしろ、道はけわしいし、山の中の離れ小島のようなところですからね。 などと、地元の人に教わると、たいがいの人がまだ山道にわけ入る前にウンザリしてしまう。 バスが入るようになっても、沿道は例年の台風や崖くずれで年中運休し通し、ことに昨年(昭和34年)の台風では、お隣りの早川が大荒れに荒れくるって、山道を三十数カ所も寸断し、いまだに復旧していないので、小さな旧型バスはあるときは、谷底が透けて見えるような木製の仮橋を牛歩のような足取りで進んだり、石がゴロゴロの河原を小舟のようにゆれたり、とにかく、終始あえぎ通しである。 途中すれ違うものといえは、ダム工事の大型トラックと、木材をつみ出す運搬車だけ、右に左.に目のくらむような断崖がそそり立ち眼下には激流が白く岩をかむ険路が、富士川との分岐点飯富からでもざっと四十キロはある。 いまでもちょっと大雨があると、二週間は外界との連絡がとだえちまうんです。 人間の住むところではありませんね」 と地元の運転手さんですら、こんな秘境に人間が住んでいるのが不思議だといわんばかりの表情である. ところで、問題の秘境奈良田には、こうした難路のドンづまり南アルプスに連なる西山山系の谷あい深くにへばりついた寒村だ。 さすが人が住んでいるだけに、山間にはわずかの平地も見え、すぐ下の西山温泉から抜ける岩肌にうがったトソネルをくぐると、眼前が.バッとひらけるが、これとて、大半は、高さ二五メートルのダムにせきとめられた人造湖になっていて、人の住めるところは東側の山際に沿ったなだらかな斜面だけ。その一部も、いまは水が押しよせ、屋根に石をビッシリ並べた奈良由独特の家並みは、どんどん山の上に押し上げられている。 こんど移転が決ったのは、部落内の道路奈良田湖から荒川へ通じるのを境に、西の奈良田湖の全部と東側の一部を合せた三十三戸だが、郷土意識が人一倍強いところだけに、たくさんの補助金をもらっても、貧乏な村から出て行こうという家は二軒だけ。あとの家は、貧しくても苦しくても、祖先の土地を守ることになった。移転先は、ダムを見下す西山小学校奈良田分校脇の高台で、現在の部落のちちょうど真上に当っている。この移転はすでに六月いっぱいで終り、以前の姿は東側の数戸がわずかに昔の姿をつたえている。 なにしろ、奈良時代からの風俗や習慣をそっくりそのまま伝えた日本でも唯一の部落で、屋根に 石を載せた典型的な奈良田の家だからね。さて、あの独特な家並を文化財としてのこしておきた いものですよ。もう造ろうとしても、出来ませんから 区長の深沢金治さんもさびしそうだ。では区長さんがいっている奈良田に伝わる奈良時代からの風俗習慣とはどんなものだろぅか。 山間の寒村に残された不思議な奈良文化を解明するカギは、どうやら部落発祥にまつわる伝説をひもとかなければならないらしい。 光謙天皇の御遷座 奈良田は今でこそ山梨県南巨摩郡早川町奈良田の名前で呼ばれているが、明治以前は、甲斐国の山梨、八代、巨摩、郡留の四郡外で、山城郡奈良田村と一郡一村の特異部落であった。その奈良田の由来について、部落民は口を揃えて、 ここは孝錬天皇が御遷座したところで、時の都奈良の名をとって奈良田と名付けたもの というが、この山間に、奈良の女帝が来るいう不自然な伝説が伝わったのは、次のような理由からである。 天平感宝元年七月即位した第四十大代の孝謙天皇(女帝)が天平宝字二年(七五八年)御幸先で 御病気にかかられた。意外に重い病気のため愛人の適鏡が秘法をこらして祈り、薬湯を献じたが 一向効き目が現われなかった。 孝謙天皇は病の床に夢をみられた。甲斐の国、湯島郷に効験あらたかな霊場がある。行けば必ら ず直るだろう。 目をさまた女帝が湯島郷の湯所をお求めになり、奈良の都からは、帝は位を皇子に譲られて病気を癒すため、同年五月出発され、この地にお出でになり以来八年間ここに遷座された。その時付き従って来た警護の武士と土地の娘が結ばれて生れた子どもの子孫が、奈良田部落のはじまりという。 甲斐の湯島郷には西山温泉という浴場があり、帝の病気は快方にむかわれ、全快されても七八五年まで、西山の北にある奈良田に宮を営んでお住まいになった。 この間、帝は近くにある鳳凰山に登られて、奈良の都をお偲びになり、帰り道に山山の石に莚をしいてお休みになったこともあったという。 またある日、地蔵ガ岳に登られた時は、安産を祈って頂上の地蔵尊を安置された。地蔵ガ岳に珍しい地名が残っているが、これは帝のお供した道鏡の遺蹟だといわれている。 さらに、帝は民の生活に心をかけられ、山間住いの不自由な里人のために、塩の湧く池を発見されたり、衣料の染色技術などを教えるなど、里人をやさしく教え導かれた。このため帝の徳を慕って奈良田の人々は、-部落の高台に奈良田神社を建て厚く尊信し、御事蹟の跡をいまに至るまで語り伝えている。 孝謙天皇ご証明 七不思議 ダムの建設と人造湖の出現で、孝謙天皇にまつわる奈良田部落の遺蹟も大方、水中に沈んでしまったが、二年前まで、この部落には孝諌女帝のご遷辛を証明する、七不思議の遺蹟があって話題をまいていた。 その七不思議とは、 一、塩の池 病気がなおった女帝が都にお帰りになるとき、里人への感謝の意味で、「塩を与えたまえ」と念じて作った池。 二、ビンロウジ染池 西側の森の中にあった池で、白衣をつけると赤い色に染まったので女帝自らお召物を染めたといい伝えがある。 三、お手洗の池 女帝が雪の日に若宮八幡に参いろうとして、境内の泉水で手を洗ったら、お湯が吹き出すように沸いたという。 四、洗濯池 これも女帝の、係るものでどんな汚れものでも、この池の水で洗えばきれいに落ちたといわれる。 五、御符の水 仮宮のすぐ上の奈良田神社の境内にある泉の水で、万病の特効薬といわれ、いまでも村民は腹痛の妙薬としてのんでいる。 六、片葉の芦 ホームシックにかかった女帝が芦の葉の一方をいたずらにさき、奈良の方へ向けてさしてから、片葉になったという。 七、二羽の鴉 女帝と道鏡のロマンスから思いたったのだろう。鴉までが女帝をしたって、ここでは必ずつがいになって飛ぶといわれる。 では奈良円に女帝が遷宰されたというこの伝説は本当だろうか。部落の深沢輝一さんは 難波がたかすまぬ汲もかすみけや うつるもくむるおぼろ月夜に という女帝が奈良田でお作りになったという御製をもち出して力説するが、地元でも奈良田に住われたのは孝謙女帝ではなく、女帝と道鏡とのあいだに生れた王子奈良田王であったともいう? 奈良田の名の起りは、ここから出たともいう。というのも伝説では女帝が道鏡とともに奈良田に八年も住まわれたことになっているが残念ながら史実にはこんな事実はないからである。 女帝は奈良時代孝謙天皇としての在位期間は、 749年8月19日(天平勝宝元年7月2日)~758年9月7日(天平宝字2年8月1日) 称徳天皇としての在位期間は、 764年11月6日(天平宝字8年10月9日)~770年8月28日(神護景雲4年8月4日) 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。 即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。 『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。 この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 ~ 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。 英帝といわれて聞えが高い光明皇后との間に生まれた王女で、即位されたのは奈良の大仏が完成した天平勝宝元年の七月、三十三夜の時であったと伝説に上る。 奈良田にいたのが八年間とすると、ちょうどこの即位の年に当り、女帝は都で目まぐるしい政変があった間を奈良田で過し、突然山間の小部落で帝位になられるという離れ業を演じなければならない。誰に聞かせて辻褄の合わない話だ。 それにしても、女帝と道鏡との色模様が俄然精彩を放ってきたのは、天皇になられてからのことで、これ以前、一緒に奈良田くんだりまで、アベック旅行を試みるほど親密になってはいなかったともいえる。 では奈良田王の伝説はとうであろうか。もともと奈良田王そのものの存在が明らかでないのだから、これもまたつくり話というよりほかにはないようだ。 「後に、道鏡は女帝の死で権力を失い、実力者藤原の手で下野に流されたが、このとき甲斐に去ったに違いない、という憶測から生れた話だろう」 と、専門家の見るのはあくまでも冷たい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月18日 05時42分03秒
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