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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年02月24日
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カテゴリ:泉昌彦氏の部屋

秘話 北条・今川・武田をめぐる 富士諸金山と埋蔵金

  (麓・川尻・丸山・湯の奥各金山)

 

   泉昌彦氏著 『伝説と怪談』シリーズ第三弾

 

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

第二集で武田諸金山の一覧と埋試金についてしるしたが、富士山麓にはこのうち今川領の「くるみ沢金山」(麓)と、川尻の武田金山とかあるので、これら黄金山の埋蔵金伝説などについてのべてみよう。

 

本栖湖畔の東側に立って西北をみると竜カ岳(一九四四)が、湖畔に嶺を映して聳えたっている。竜カ岳からはさらに駿河に向って金山カ岳(一七七二)、毛無山(一九四六)と、嶺を連ねている。この連嶺を天子山脈とよんでいる。

 

さてこの嶺を振分けた毛無山の北側甲州領が現下部町の「湯の奥金山」だ。又金山カ岳(雨カ岳)の南側は、旧今川領の「くるみ沢金山」で、雨カ岳の北側は現下部町の「総代会山」だ。又栃代の北には根子の古金山もある。

 竜カ岳の山裾を湖畔に沿って北へ進むと湖の隅から山林に入る道がある。徒歩でも車でもしれた距離だ。突当ると通常は水無しの谷があって、この上の山道に沿って「川尻」と丸山の両金山がある。車なら下部方面へいく隧道入口から湖畔へ下り突当った角を前記の山林を道めば七、八分で金山の入口だ。

 くるみ沢金山は、麗金山ともいって、甲駿国境に近い国道一三九号線の麓人口を北ヘ一本道を進むと、麓部落がある。本栖から車で三十分くらいだ。

金山はここから、金山神社を経て、少しきつい沢を徒歩で沢を登りつめた一時間ほどのところだ。

 焼鉱の炭や、金糞がころがっている。大きな沢があるのは、昔砂金を掘ってできた沢だ。左側の山腹には試験掘の穴が三つほどある。渓流には金銅雑じりの美しい盆石、水石がゴマンとある。この山を越えると二時間半くらいで下部温泉へ着く。

 

麓部落は敷軒で、真中に今川、武田、徳川の三代にわたって金掘りをした金山衆の旧家、がある。金山の入口には、金山神社かあり、鉱石を砕いた機械が錆ついて空しく金山の盛衰を語っている。

 

  川尻金山

 

 川尻金山は山道に洽って登ると、屋敷あとのような石垣積みが残っている。この付近ではまれに薄っぺらに使いふるした石臼(鉱石を砕いた)がころがっている。丸山は古代金のとれた記録があるが、近世は焼鉱による銅をとった痕跡を残している。

 川尻金山は一万分の一の金がとれたという文献がある。

武田時代のはじめは、南と北に分かれて地表に近い砂煙をネコダ流しにして砂金を採集したもので、坑道掘りによる金山の口は、閉山には必ず塞いでしまったので今の穴は近代のものだ。

 川尻金山は本年から新鉱主によって再掘される。大東亜戦中は、本栖の浩庵荘主が軍需省の責任者として八十人あまりを使って鉱石だけ掘って冶金会社へ送り出していた。

 川尻金山を山越えして金山カ岳をまわると、約四、五時間で下部町栃代部落につく。この部落の石垣や石段には、使い古しの石弓が積まれてある。武田時代に栃代山で砂金を採集し、のち坑道ぼりをおこなって全山蟻の巣のように掘り廻らせたので、激しく水を噴き出している所もある。

 

川尻金山は駿河の国境にも近く、武田信恵時代には、一国を辛うじて支えていたのでしばしば今川氏に攻めこまれ、信虎の叔父油川信恵が、岳麓の支配権を握っていたので、今川勢は油川勢で食い止めていた。やがて信恵は、永正五年(一五〇七)に勝山で信虎に亡ぼされた。 

駿河の国境はまだ信虎時代は不安定で、西八代の大井信達はかえって今川にたよって信虎をくるしめた。甲駿国境が安定したのは信虎の女が今川義元の室になって以来だ。本栖湖にほど近い川尻から採れる豊富の砂金は、戦争とは無縁に、いづれかの武力に従って大過なく掘っていたものだろう。金を掘る金子を牛耳る金山師は、いずれの武将にも拘束されないフリーの武士団であったからだ。

 

  麓金山  

 

麓金山は比較的文献の多い金山である。

 静岡県史料叢書二号、三号、駿河記などにしるされている。以上を総合してもはっきりいつ頃から金掘ったということは不明だ。伝説ではすでに上古から黄金沢であったといったモチーフのもの、が伝えられている。

 武田信玄が富士金山を支配したのは、永禄十一年の末に駿河へ攻め入り、翌十二年には駿河一円の社寺へ知行安堵の朱印状を発しているもので判然としてくる。麓金山は今川氏時代に砂金採集をおこなっていたことは、天文二十年(一五五一)八月二目に、今川氏から、麓の太田掃部丞へ発した朱印状に、

 

「富士金山へ馬で五駄の荷を六回運び上げるについて、甲州と駿河の国境で相留められることがあっても、金山の者共は堪忍(こらえ)することを固く相違なく守れ、その余の者が通行したときはかたく成敗する」

これは分り易くした文章である。

 

武田の乗っ取った富士金山へ

 

 天文八年、穴山信友が本栖の方外院に出した印書や、永禄五年の信玄図書で、川尻は、天文八年頃は武田の支配下にあったことは判じられるが、麓はどうか。武田信玄、は永禄十一年(一五六九)、家康と密約して今川領を二つに分け合うことにした。

 信玄は大兵を出し、永禄十一年の冬中に、駿府まで占領した。このとき北条氏政が側面から武田車をついたので信玄は翌十二年春、軍を返すとみせて再び攻め入り、大宮城(現富士宮市小学校付近)の富士信恵を降して、駿河一円を占領した。この占領範囲には、現三保、久能山、清水市など広範囲にわたって武田の知行安堵、制札などが多数残っている。但しここへはとうてい示しきれないので、二、三を分かり易くして載せる。

 現一三九号線の根原に出された朱印状によると、

「最前より味方となって奉公したので神妙である。叔父文左衛門尉を抱えて知行を与えるので今後もますます忠節を尽くすように」

といったもので、これが永禄十二年七月十一日とある。跡郭大炊助と小林左衛門尉は、武田の家臣でこれを奉るとある。(根原文書)

 武田軍が北条軍に阻まれて一旦甲州へ退いたのは、永禄十一年十二月十日に、富士郡先照寺に出した寺内の乱暴を制した「制札」や、駿州と甲府間の伝馬参匹などで判断できる。

 猶、穴山信君が永禄十三年四月一日に、庵原郡万沢遠江守へ出した、

「今度駿州乱入の砌、謀を策して奉公して神妙だから知行の安堵状を出す…」

といったものでも、判断できる。

 麓には、今川義元の頃から竹川氏を名のる金山衆の武士団、があった。「太田」「竹川」「石川」などの頭領の下に、一族二十二人の金山衆、がいて金を摺っていたことは、家版の代官、井出花之助の出した天正十一年の印書にしるされている。

 麓の金山衆は、くるみ(胡桃)沢から竜カ岳方面にかけてとれる膨大な金山から金を精練する特有技能とあるていどの武力を買われて、今川の亡びたあとは永禄十一年の末から武田信玄のために金を掘り、武田、が亡びると宋版に随身したことは明らかだが、この間、諸藩の金、銀、銅、鉛山などをどん欲に直轄としてとりあげ、浅野長政、長継に支配させた秀吉時代は、宮原の知行下に入っていた武田諸金山が長歎と長逝によって再捌するようにはこぼれた文書は、徳川領に限って見ないので、秀吉の支配は家康に及んでいない証拠だ。

 

麓金山は、勝頼の時代、穴山伊豆守が、保山金山と共に支配していたことは、天正五年十二月十九日に信君が、麓金山の金山衆竹河肥後守に、

「富士金山の内、川胡機場の藤左衛門後家の跡式について」下した判物で推定できる。藤左衛門は、麓の川くるみ金山を支配していた金山衆の頭領で、竹川一族である。いわゆる後家

になっても金山にある家屋敷も、掲揚も安堵するので、親類百姓以下は非分なくせいという意味は、掲揚などを争うなということである。

 天正十一年三月十一日、武田は亡び、川尻金山も麓の金山も徳川の支配下に入った。これは慶長七年(1602)頃に家康の代官が出した「富土合山裾間の割ふり保証」などの裏書で判断できよう。

穴山信君は、家康に黄金二千枚(一枚四二匁)と、女二人を賄賂に、武田の名跡をつぐ約束で駿河の江尻城を明け渡したまではよいが、天正十年六月、信長の焼殺(本能寺の変)で逃帰る途中、宇治の近くで土一揆に殺された。

子供の勝千代信治は、甲州の河内を知行して湯の奥の三金山を支配したが十六歳で疱瘡で早死し、家名は断絶した。

天正十年三月六日、北条氏政の出した朱印状では、勝頼が殺された三月十一日前に、すでに麓金山衆、大宮司衆に対して味方に加わるよう印書を発している。

 麓金山は、のこっている文献で、江戸時代の宝末大噴火の前後には寂れてしまい、後幾度も再開をこころみても金はでなかったことが判断できる。

 

ともかく金というものは、地表の土に混じって転がっていた麩金時代がもっとも黄金花咲く時代で、これはもう日本のどこからも望めない。

しかし望めるとしたら富士火山帯の下に埋没したといわれる御坂古生層だと思われる。海底から噴出したはずの富士山のどこかに金が埋れているという伝説は、どうしたことだろう。熔岩に埋れた黄金の山も谷もあったことを誰が否定できよう。ただ広大な富士山の土が知っているだけだ。川尻から流れ込んだ砂金が本栖湖底に沈んでいる。

 

   武田の千かまど

 

 秩父大滝村にも「武田の千かまど」という諺がのこっているが、麓金山にも同様の言葉が残っている。事実川尻や麓金山には、古いかまどの跡が残っていて、炭やもえさしの薪が残っているし、金糞も転がりでてくる。しかしこれが武田時代のものであることは前記のとおり信じられない。

 銀銅を焼鉱によって精練するのは、竈をつくって鉱石と薪をつみ、一か月も二か月も焼く方法である。これは近世冶金の常識のようだが、金山において焼鉱をおこなったというのは、砕き易いようにするためであろうか、坑道の硬い岩を薪で焼いて水をかけてボロボロにかきおとす方法は江戸時代にあちこちの堀抜きでおこなった工程の一つだ。

 武田時代に麓金山焼鉱で金銀を選別した点については、今後の研究にまちたい。

なお古関の赤他姓は、根子の金山に長者として君臨した根子弾正が、伊豆の方から移って金山発掘をはじめた始祖といわれる。根子弾正は、金掘りの長者で大磯の長者屋敷から移った人である。木栖観音ももとは「根子観音」といって大磯からもってきたものと推定できる。大磯小磯の部落名がよくそれを証明している。

 

本栖潮にぼう大な砂金 

 

戦国時代は主として砂金の露天掘りと、露頭した金を砕いて堀すすめた程度で、石臼の使われたのが天文~天正時代という証拠はない。黒川金山の黒川谷に明治時代まで使われていた水車のそばに、金鉱をひいた石臼のあった例は川上の梓山にもある。金は水を必要とするので、川べりに精練場の遺跡がある。神山長尾金山は、あきらかに谷川から別に水をひいた遺跡かおる。

 石臼は徳川時代に入ってから二人まわしの唐臼や、水車でまわす石臼がつかわれた。しかし天正時代の川尻金山や能金山は、その後幾度となく堀返し掘返ししているので、その頃の金山はあと方もなく土中に埋まり、又鉄砲水で流されてしまって何一つのこってはいない。金は砂金を流したあと、穴を掘る坑道掘りを繰り返し行っているので、思わぬところへ谷ができ、鉄砲水、山崩れで埋まっている。本栖湖へは太古、鉄砲水で砂金が流れこんでいることは確定的だ。

 信州で筆者が発見した金山の坑道は、すっかり岩で口を塞いでしまってある。現在麓や川尻からでる石臼は水車で廻したり、二人でまわした唐臼に近いもので、せいぜい明治時代前後のものだ。これをまわした金山の古老の生存中の話であるから誤りはない。

 四百年、この永い世代に使った武田時代のものが残って居たら不思議である。金の鉱石は、砕いてから又細かくするのに、砥石を大きくしたような石で叩いたり擦ったりした。その石盤の合と擦った叩石が黒川谷に埋もれている。川上に礼っと礼古い金鉱石を砕いたものは、石皿に近いかたちをしている。

 

  湯の奥金山

        

湯の奥金山は、「中山」・「内山」・「萱小  屋」の三か所が金山として栄えた。

門西美貞方で昭和四十三年に発見した古文書によると、

文久二年(1862)十一月十三日、名主縫右衛門が市川代営所へ差出した稼行の願書で、前記三か所は、私の先代三代の処の天正十九年加平助様より書付をもらい、三貫五百文の請納をして云

々の文書や、巨摩郡の長百姓七郎右衛門代惣百姓八郎兵衛より、私所持の中山、内山、萱小屋の三か所で、金山程方を御理解云々の文書で、天正頃より延宝頃まで、金山程人が沢山入っていたことが記されている。

また正徳一年(1711)以後の古文書は、筆者採集三十六通が、明治十年までの湯の奥金山の記録で、この中には銅のでる記録はあるが、山崩れで埋没したとある。ともかく内山、中山、萱小屋三金山は、門西京代々の特出として文献多数が残されている。

この中には別記のとおり運上金順礼示されているがさしたる額ではないから、江戸時代に入ってからは、目覚しい出金はなかった。この能常盤山に明和中の銅鉱がある。これは近年試掘しているようだ。常盤山金山も天正時代出金した伝説もある。これは銅鉱のある「堺畠」 (沼沢)の奥の五老峰である。五老峯の南が萱小屋に当たる。この他都留の湯之沢、城山は古すぎて、御坂の金沢、達沢、折山と共にまったく証拡が隠滅している状況だ。

 

   武田滅亡後の湯の奥金山

 

武田以後の湯の奥金山の移りかわりで、比較的明瞭なものを挙げる。内容をかいつまむと、湯奥村名主の与市兵衛が、石和御役所へ差出した所有権主張の訴状である。分かり易くしるすとつぎのようになる。

 

  八代郡、湯奥村分門に阿山つづき字中山というところから、先年金を掘出したところは、

今般下部材神主河内支配の社地中山に七か所、これある由を申し上げた。

しかし当村地山の儀は、文禄、天正年中に、永三貫五百文にて、私の先祖、が稼業して

いたところである。

又慶長年中には、五石四斗宛の御上納を仕り、その後の延宝七年(一六七九)の御苑(検

地)にて、刈生畠(これは焼畠をいう)を借りおったところである。御水帳に宇かりぐ

らとあるのは先年このところに今山盛りし節、今堀していた者共のために祝神として名

実が祭り賜わったものである。

社の大きさ七間、この社地を、河内神主が河内領分と申したてる儀はまったくいつわり

である云々……

 

これは、延宝の検地で、門西京でお上から借りうけた刈生場の畠へ、神社を建てたその社他の木を、神主が売払ってしまったことから訴えでたものだ。ついで神主から材木を買った者が来たので、中山の社地は河内の支配ではないとことわった。

 

御公頷さまへも訴えたが、以上の社地がじぶんの物であることは、天正、慶長年中に先

祖のもらった判物と、御役所へ持っていった御水帳にも照らしてご吟味してもらいた

い。

 

ざっと以上のような次第で、門西家の与市兵衛が、この訴状を差出したときは石和御役所宛て、先の天明時代の名主七郎右衛門の文書と共に、金山奉行の推移を知る資料である。

市川代官所は、明和二年(一七六五)にできたので、石和御役所へ届出たのも妥当である。

 

本栖胡に埋蔵金  

 

本栖湖は江戸時代丸木舟数隻で東岸と往来したとある。

武田時代にあった本栖城へ金を運んだので、湖中で突風のために沈んだ金舟があった。従って湖中にはこの埋蔵金が舟いっぱい分はあるという説、この舟が腐ってでたとは飛躍している。又取合いの激しかった本栖城には、どこかに埋蔵金、が埋まっているともいわれている。

しかし湖底の砂金の方が有望だ。

 ことに、金出カ岳から、意力岳へかけて、有望な坑道が出水のため閉鎖したという古文書がある。竜が番をしているという説伝も、妄りに出へ入ることをさせないためにいいふらされたものだろう。

 ともかく川尻、麓、丸山、投手、城山、この一帯の黄金時代を考えると、埋試金は夢ならずだ。

もっとも有望なところは、延暦の大噴火によって溶岩におおわれた御坂古生層だという。これなら一二七〇年も昔のことだから、それは後は掘ることもなかったわけだ。

最近、砂金のふくまれている素質の赤土が富士の溶岩をブルド-ザ-でかいたところから出て来た。御坂古生層が、本栖から河口までの北麓を南限として、所は海たったところへ富士山が噴火したという定説もあるが西湖、本栖、山中湖方面には、小さな丘で御坂古生層がとび出している。ブルド-ザ-であちこち大穴を掘っているは、今川、武田、徳川と明治まで永い世代にわたる大黄金山があったからだ。

 

御坂町の金山

 

 御坂町には金川、一宮町に金田、金沢・金生(錦生)などの地名がある。文

献として甲斐国志のほか挙げるものはないが物証はある。

御坂町の立沢山から古代砂金がとれ、のち江戸時代初頭、金鉱の採掘をした点はあきらかである。この一帯が古代の大黄金地帯であったことはほぼ古名で推定できよう。

 

本柄湖底に潜む膨大の砂金

 

 永年追せきしてきた武田諸金山のうちで、もっとも人の気づかない埋蔵金山にやっと突き当ったと確信したのが川尻金山だ。

これはすでに四月中に地元サンニチ編集局の文化欄へ原稿を渡してあったものである。

まず本栖湖は周囲十二、九キロ、水深は一三三メートルと五湖中もっとも深い湖だ。湖畔からほんの十分ほどで川尻金山、丸山古金山のとっつきに到るほど金山は湖畔に接近している。

 

川尻の自然金山  

 

川尻金山は、いわゆる本栖湖西北の隅にそそぐ涸れ沢からはじまるわけで、雨ケ岳は本来「金山カ岳」とよぶ(甲斐国志)のが古名だ。

川尻、先山の金山はもともと金鉱石が風化分離した自然金いわゆる砂にまじった砂金採集がはじまりであったことは証明される。従って今川氏が活発に金山を開発するずっと上代にわたり、豪雨と鉄砲水で金山ケ岳、丸山からぼう犬な砂金が本栖湖に流れこんでいるという筆者の説に反対する理由は何一つあるまい。

 筆者は武田と名のつく金山はすべてアタックしている点では、第一集にて足でまとめた武田諸金山の現地を紹介したとおりだ。川尻金山も幾度か歩いてみて本栖湖には膨大な埋蔵金がという確信を増々深めた。ならば自分で金を掘ればよかろうというだろうが、他にもそうした埋蔵金のありそうな在処を発見しても、ツルハシまではもたないのが主義である。川尻はロッジのある林を貫流する潤沢の尻を指して川尻とよぶのだ。

一二七〇年前の延暦の大噴火以前は、この潤沢一帯からキラメク砂金が豪雨のたびに本栖湖へ流れこんだと考えられるのだ。もっとも千年といえばかなり湖水の形も変化しているだろうし、湖本が噴火や鉄砲水で浅くなったり狭くはなっても反対に広くなるようなことはない。かなり延暦以前と現状とが異なって居るとはいえ、水は低いに流れる論理からすれば、目と鼻のさきにある金山カ岳、丸山からぼう大な自然金、あるいは良質の露頭金鉱石が、現在ロッジのある平坦の林一帯の地下深く(二十メートル)と湖水に砂金が埋蔵されているという点は、ほぼ確信のもてる結論である。但し結論か絶対の保証ではない、が……西湖、精

進、本栖、が繋がっていたという上古、御坂古生層の南岸と北富士の境目には、御坂町の達沢金山や、川尻、丸山などの古金山の一部金脈や自然金が埋れているということも決して夢ではないような気がする。

 

川底の砂金溜め  

 

丹波川では水面で川底の岩の割れ目をみて歩くと、ピカリと山吹色の砂金が光っている。

丸太棒で岩の上をそっと叩くと砂金に積もった砂は流れ去るので砂金は鳥モチヘくっつけて採集する方法が行われてきた採集人のやり方だ。

前記砂金溜めとは、比重の重い砂金は政の川底を流れるので、川底へ直径六十センチ位の穴を掘っておくと、流れてくる砂金は、重いのでこの穴へ吸いこまれるよう落ちるのだ。この砂金溜めは、丹波川に幾つもあるので、この穴一つの砂を浚ったら確実に砂金は採集できる。

事実毎年正月の費用は、この穴一つからでる砂金で賄っておつりがくるという美味い汁を吸っている家が現に丹波にはあるのだ。しかし信玄の砂金溜めの穴が川底のどこにあるか、これは筆者の知っているものを公開することは、他人の楽しみを奪うことになるので控える。まだこの他丹波川水系の上、下流には尺きせぬ埋蔵金の潜むと思われる武田の金穴もあるが。

いずれ四集に詳しいものを一括して発表しよう。

 

   今も出水で砂金が

 市川大門から入る雨畑では、古来膨大な砂金や有数な武田金山のあった所だが、四十五年の秋、ある鉱山通の人からこっそり聞かせてもらった話では、雨畑では今も出水のあった某所に沢山の砂金が流れ出すところ、香るという。今はもう砂金を採集する道具もなし、採集できる技術をもっている人も無くなったので、見捨てられているが、また雨畑のどこかに砂金の埋れている所が必ずあるので、山に明るい筆者に探してみないかと言われたが、筆者は執筆取材でとてもそこまで手が回らならぬと断わったことがある。これこそ嘘の言えない筆者のもつ秘話である。

 






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最終更新日  2021年02月24日 18時08分41秒
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