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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年04月26日
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カテゴリ:山梨県の著名人

尾崎行雄先生の志を継いで

 

右の手に極意あり(二) 米沢良知氏著

 

   『中部文学』14 昭和53年 

中部文学社編集 甲陽書房発行

    一部加筆 山梨県歴史文学館

 

私の人生方向を一変した尾崎行雄先生との出合いについて書くことにします。

 

 私は昭和四十四年七月、『漢字に代わる文字について』と題した、請願書を国会に提出しました。この請願書が縁となって同年十一月、尾崎記念館から招かれ、理事長、事務局長、常任理事、それに先生のご息女や相馬雪香女史をまじえ、尾崎先生の志を継いで、漢字廃止に打ち込んだ経過など話してくれといわれ、先生を知るに至った最初から、終戦後、先生の予感の青年を求めての行動、それに漢字廃止の研究を始めてからの二十年目あれこれを、約二時間話しつづけました。

この時の私の話を宜とめて尾崎行雄記念財団発行の『世界と議会』の四十五年二月号に次のように載せてくれました。

    

尾崎先生の志を継いで

 

大正九年普選大会が芝公園で催された暗に、尼崎先生の演説が聞きたくて出掛けてゆき、壇上に立って獅子吼される先生の姿が神々しく仰がれたその時のことが、今でも思い浮かびます。憲政の神として自分等如きには手の届かない存在がとして、あこがれていたその尾崎先生に、じかに師弟になったような親しさで接し得るに至ったのは、昭和十二年の秋でありました。軍部の専横を抑えようと遺書を懐にして議会で反軍の演説をされた年の秋、悶もんの情を洗い流しにと山梨県昇仙峡に遊びに来られました。その当時、山梨県に日刊新聞が五つあり、その一つの『山梨民報』の顧問を先生はしておられました。『山梨民報』の前社長の代議士・望月小太郎氏と先生はかなり親密な関係であったらしく、顧問を引き受けられたのだと思います。

望月氏死去のあとを引き継いだ原章太郎氏は代議士にはならなかったが、県議を数回つとめ、県政界の黒幕として重きをなしておりました。尾崎先生とは望月氏以上に親密な深い交際を統けられておりました。

 原章太郎氏が昭和二十二年十月死去された時は、甲府まで葬儀参列に来られ、悲痛な弔辞を述べられた程でした。私は原氏に請われて、昭和十年から戦争による新聞統合の十五年まで、『山梨民報』の副社長をしておりました。先生には『山梨民報』の副社長として、顧問としての先生に接するに至ったのであります。

 多年憲政の神と仰いでおった先生と、同じ自動車で昇仙峡に向かいました。軍部からにらまれておった当時の先生に対し、山梨県庁は冷淡でした。昇仙峡の入口の天神森から先は車馬禁止になっていたのを、先生だけ人力車に乗ってよいとして、車夫をつけてくれただけでした。車夫の外は甲府署の特高刑事を一名つけました。天神森から仙娥滝まで六キロの道を、先生は人力車に乗らないで、さっそうとして歩かれました。足速な先生に、足のおそい原氏は汗をぬぐいながら追いつくに苦しそうでした。若い私も精一杯でした。

 

石川啄木が、先生が東京市長当時会われた時の歌に。

  

手が白く且つ太なりき偉大なる人といかれし男と会いしに

 

とあったのを思い出して。

 

  息きらす昇仙峡のゆきかえり八十翁の足の速さよ

 

と作ってみました。

 その日の宿は甲府市錦町の談露館でした。

 

宿に落ち着いて先生と原氏と私と三名だけになっての話に、今の軍部をそのままにして置くと、日本は必ず戦争に捲き込まれてしまうだろう。その結果は敗れ去るであろう。軍部を抑えるため死を覚悟して遺書まで書いて演壇に立ったのであるが、役に立たなかった。その後は、多数に制せられて立つことすら出来ない。本堂は良い死に場所を得た……何としても残念でならない……と沈痛な顔をされました。原氏もうなづきます。私はこの言葉をきいて憲政の神として畏敬して接した先生でしたが『キリシタンも老ゆれば』とか『年よりの冷水』とかの文句を思い浮かべました。

 

政府筋の宣伝に酔っぱらってしまっていて、大東亜建設が至上のものであり、日本必勝必至なりの先入観念が、先生の真憂を受け入れることができなかったのであります。

 

昭和十一年、私立青年学校令が施行せられ、山梨県で最初であり唯一の軍事教練を目的とした私立山梨水晶青年学校を、自分の経営する山梨水晶株式会社内に設立する程、戦争賛成にこりかたまっておったのです。

 戦争中私は先生の憂いと反対の戦争協力の道を歩み続けたのです。

 

終戦によって私は初めて尾崎先生の真憂を知りました。眞に国家を憂うるものは、十年先、二十年先の国家がどうなるかの勘が湧くものであることを知りました。あの時のことが思い出されて、先生に何と言って、お詫びしてよいかわからぬくらし恥じ入ったのです。

戦争協力の罪滅ぼしに、子供の頃からの悲願であった百万長者の夢を捨て、先生の宿願の政界浄化に取り組んでみようと心に誓いました。一年に二倍三倍と伸ばしてきた山梨水晶株式会社の伸長を打ち切り、驚異的と世間からほめられた、その努力の全部を先生の宿願達成のために切り替えることを強く誓ったのです。

 それから一年後、尾崎先生から原氏宛に、甲府に行きたいという連絡があったのです。

私は飛び立つ思いで新宿駅まで迎えに行きました。終戦の翌年二十一年の九月の暑い日でありました。その頃の中央線は三等車ばかりで、窓から出入りして平気の混雑さでした。老齢の先生の座席が心配でしたが、新宿駅長の計らいで一行全員が腰をかけられました。一行中には甲府市出身の村岡花子女史が、先生と一緒に講演したいとして加わりました。

 私は先生と並んで腰をかけ、甲府に着いてからのスケジュールを説明しました。

 

 甲府駅から歩いて三分院の県会議事堂で、時局講演会があって先生に四十号泣立ってもらい、晩は湯村温泉の常盤ホテルで県知事や裁判所長等の県内名士懇談会を予定していることを話すと、それでは車中で食事をすませておこうと、弁当を開かれました。

九年前には足速で驚いたのですが、今度は健啖に驚きました。折り詰め弁当を全部平らげました。八十九歳だというのに老人らしい感じがないのです。

甲府市でのその日の催しはすべて大成功でありました。県会議事堂での講演は四十分を予定していましたが、一時間半も立って話されました。

晩の名士懇談会は私が司公役をつとめました。その翌日、先生の希望で常盤ホテル二階大広間で先生を囲む青年座談会を催しました。百名近い青年が集まり盛会でした。この座談会の司会も私がつとめました。敗朧後めあるべき姿とか、講和条約に対する勝者の責任とか、かなり思い切った見解が述べられました。政党はその何れもが徒党である……という昔ながらの嘆きちくり返されました。

漢字は目本文化のゴミである。このゴミの大掃除をしないと、文化国家日本は良くならない……という新しい説も強調せられました。

 

その後、二十二年一月に先生はまた甲府に来ました。その時、先生は、自分の選挙区の三重県に行かないで山梨県に幾度も来るのは、自分の志を継いでくれそうな青年がいそうな気がするので来るのだ……と打ち明けられました。そして、逗子風雲間に焼け残った四千冊の蔵書があるが、これを山梨県の青年に寄附してもよい、とまで言われました。この蔵書については、その受け入れの窓口をつとめた原氏が死去されたので、そのままになり、尾崎記念館に蔵されています。私共山梨県人にとって残念千万なことです。

 先生の予感の正しいことは、十二年の時のことで身に沁みていましたので、先生の志を継ぐ青年を探し出す殷を引き受けてやろうと心に誓いました。

政治方面にくわしくなるために、二十二年から二十六年まで県議会議員をしました。議員をやめてからも県政界の一線に立って、三十年の保守合同で自民党県連結成の時には副会長になり、その

後常任相談役になり、現左右常任相談役をつとめております。

その間先生の予感に結びつきそうな青年を、国会に送り出す選挙の総参謀を幾回かつとめました。また、咢堂門下生の一人として恥じないため清廉で押し通しました。自民党に在っても、政党の徒党化を少しでも薄くするため節を守り通してきました。

 

夢のように過ぎ去った二十今年をふり返ってみて、政界浄化は立派な人を出すよりも、何よりも先に選挙制度を変えねばだめだと思いました。

現在の選拳法は悪法なりの見解を強めました。今の選拳法をそのままにしては、政界浄化は「百年河清をまつに等しい」の結論に到達したのであります。

 

二十二年一月のとき、先生の言われた自分の志を継ぐと言った志とは、先生宿願の政界浄化なりと私は早合点で番みこんでしまったのですが、漢字は日本文化のゴミである。このゴミの大掃除をしないといけない、と言われたことや、その後先生の・…漢字亡国論‥‥を読んだり、漢字廃止に関するいろいろの文章や歌を読んでいるうちに、先生の終戦後の一番の憂いは漢字廃止にあったのだと受けとるようになりました。そこで漢字廃止に取り組んでくれそうな青年を探し始めました。私は戦前からの、保守系の『中部文学』の顧問をしたり、終戦直後結成された革新系の山梨県文化団体協議会の会長に推されたりで、県内の文化人らしい人は大抵知っており涯したが、文字自体に取り組んでくれそうな青年はなかなか見つかりません。そこで漢字については自分が引き受けて研究してみようと決心するに至りました。

 

漢字については、私の子供の頃からの篆刻であった必要から、大昔の字体の古文から篆書まで勉強を続け、楷書で読める欠字は篆書体も読めるまでになり、象形文字、合意文字、指示文字等の六書について、その字義まで大体わかる知識が身に付いておりましたので、こうした知識を背景にして漢字問題に取り組み出したのです。

いろいろ研究してみると先生の説の正しいことがわかりました。漢字を廃止する場合これに代わる文字を登場させねばなりません。この研究を始めたのです。国会に請願した片仮名組み合わせ文字は、先生が逝去された翌昭和三十年頃思いついた文字ですが、なんだこんな子供だましのような字が、と、自分の子供等にも笑われたので、その後別の面からいろいろ研究し、いろいろの新文字を考えてみました。

 韓国の諺文が 音階文字として理想的なものと感付いて、諺文を真似た背文字を作ってみたこともあります。また十画以内の漢字の範囲で国字式なものを考えたこともあります。

 いろいろ研究してみて、一番最初に思い付いた片仮名組み合わせが一番良いものと思い返して、これに一応決め請願に使いました。

 片仮名なら誰にも読めるし、音標文字ですから二様の読み方もなく、言葉の整理にも役立つに至るであろうし、この文字なら国家で認定しないでも便利重宝が買われて普及するだろうと考えたのであります。

 

以上が尾崎先生と知るに至ってから、漢字に代わる文字について、請願書を国会に出すまでの経過であります。

  『世界と議会』誌の全文は以上でありますが、付け加えたいことがあります。

 

 二時間の長い私の話が終わり、食事までご馳走になった時、私の隣席の先生のご息女相馬雪香女史から

 

「米沢さんは、父の志というのを間違えておられました。父は戦争中、自分はなぜ出来もしない政界浄化などに長い歳月取り組んで来て馬鹿なことであった。漢字廃止に取り組むべきであった。世界の廃藩置県の運動を起こすべきであった。と、私共家族に話されました。終戦後甲府に行っての志とは政界浄化ではなかったのです。それを米沢さんは政界浄化と取り違えて、二十幾年か選挙の虫のように動きまわり、刑務所まで行ったそうですが、父の言った志をとり違えられていたのですよ」

 

と言われ、私は頭から冷水をかけられたようにハッとしました。二十年の夢が醒めたのです。

山梨水晶株式会社の伸長を振り替えたような、二十年の選挙一路が、聞き違えに始まったなんて笑うにも笑えません。

 でも、中途から漢字廃止も先生の憂いだと知って、これにも若干頭を使ったので、全部が全部無駄な二十年ではなかったのです。

 しかし選挙からいろいろのことを学びとりました。選挙の右の手は何かを考えると政治の右の手は何かに及びます。

  「国よりも党を重んじ 党よりも身を重んずる人の群かな」

の尾崎先生の終戦直後の歌が大写しになってきます。

  「世を救い人活かす道一つあり 世界にわたる廃藩置県」

人類を生かす右の手が大写しにされてきます。

 

    売り食い+年

 

 昭和二十年八月十五日を境にして、日本が生まれ変わったように、私の人生行路も百八十度転換しました。戦争必勝を念じて、十二年秋、尾崎先生が「戦争を始めてはいけない。始めると日本は敗けてしまう」という憂いを直接聞きながら、そんな馬鹿なことがあるものかと戦争協力に終始しました。

特に十八年、山梨県産報特別勤労動員本部入りをしてからは、山梨水晶株大会社の経営まで、そっちのけにして戦力増強のための企業整備、軍需産業への従業員転換に、警察力を背景にして全力をあげたのです。かなりお国のためだを合言葉にして、無理な配置転換の押し付けもしました。

 戦争に敗けて呆然たり、です。昔なら切腹ものです。私は切腹のかわりに、それまでに築きあげた財産のすべてを売り食いつくし、昔の貧乏に足をつけよう……と決意して売り食いに入りました。山梨水晶株式会社は殆んど名前だけの存在にし、留守番程度の四、五名の従業員だけにし、自分のための仕事はしないで平和建設のための公共事業に全身全霊を捧げよう。これが、自分で為し得る戦争犯罪に対する罪亡ぼしだと決意したのです。

 

尾崎行雄先生を師と仰いでの新しい人生行路を踏み出すに至ったのです。手当たり次第公共面の役職にも就きました。その主なものを拾ってみますと……

 

山梨県民衆警察協公会長、

甲府商工会議所理事、

山梨県地労委委員、

山梨県議会議員、

山梨県貿易協会会長、

富士箱根国立公園地方常任委員、

山梨県水晶商工業協同組合理事長、

山梨県研商工業研究所理事長、

山梨県水晶発振子協同組合理事長。

 

等々を務め、政党関係では、

 

二十一年十二月、社会党に入党して県連文化部長になりましたが、

二十二年十二月離党し、

二十三年四月、自由党に入党県連の政務調査会長になり、

三十年の保守合同まで、幹事長常任相談役をつづけ、

三十年十二月の自民党県連結成の特、副会長に選任せられました。

三十二年常任相談役になり、

四十六年常任相談役を辞任して離党しました。

 

また、文化面では、

二十一年山梨県内の革新系文化団体の連合体・山梨県文化団体協議会会長に推されて就任しました。

学校門係では日本大学校友会山梨県支部長になり、

山梨大学附属小学校と附属中学校のPTA会長になり、甲府一校PTA会長もつとめました。

世間からものずきと思われたことでしょう。売名的な男よと指をさされたことだったでしょう。

 

売り食いが十年続きました。

 身死線下部駅前の宅地二百坪、建物二百五十坪と駅横の土地五百坪も安く売ってしまいました。 

二十八年には甲府市桜町の三百六十坪の土地と家屋を四百五十万円で売ってしまいました。この土地は一等地で東京電力甲府営業所に接し、現在では一坪五十万円の相場ですから、一億八千万円になったものを惜しいことをと、家族から残念がられます。売れるものは全部売ってしまい、切腹に替えた罪滅ぼしをためし得たのであります。

 売り食い中の役職について、その主なものについて、尾崎先生を師と仰いで恥じない内容であったかどうか、ふりかえってみます。

 一番長期間のものは山梨県民衆警察協会会長でした。

終戦の二十年十月、山梨県警察部長・井関氏が下部駅前の私の所に来て、

「何か警察で困ったことのある時は、下部の米沢の所に行って相談せよと前任者からの引き継ぎで来た」

と前置きして、

「今までのお上を警察を民衆の警察にするにはどうしたら良いだろう?」

の相談でした。

私は

「民衆の声を警察に取り入れることが、民主警察に衣替えする手っ取り早い策であろう。そうするには民間代表を出して警察幹部との懇談会を持つことです」

と進言しました。

 その翌月、民間各界代表九名の代表を選び警察との懇談会を催しました。

青年代表、婦人代表、言論界代表、市町村長代表、元警察官代表、宗教界代表、法曹界代表、実業界代表、農村代表の九名で私は実業界代表として列しました。この懇談会を中央懇談会として、各警察署毎に支部を設けることにし、私は下部駅前の住所が市川警察署管内であったので、市川懇談会会長になりました。その後いろいろの案を加え、二十一年六月に山梨県民衆警察協会と名づけ、民警一体の運動を力強く推進することになりました。会長には県町村会合長の大月懇談会会長の井上武右衛門氏が選ばれ、副会長には甲府会長の野口二郎氏が選ばれました。

 各署の懇談会は民衆警察協会の支部になり、私は本部委員で市川支部長になりました。二十三年、公職追放令で井上氏も野口氏も追放該当者として会長、副会長を辞任し、私か会長に選任せら社ました。二年毎の役員改選でしたが、私は重任、重任で三十年協会廃止まで会長をつとめました。

この会長はかなり時間を掛けました。各警察所毎の民警懇談会が一カ年一回以上催され、会長の私の欠席は許されません。警察官美術展覧会を催したり、警察学校に学び、県出向の警察官の激励に出張したり、警察庁舎等の建築やツ署員の宿舎建設の場合の寄附金集めに、東京に出て県出身有カ者を訪れたこともかなりありました。

 三十年十月全国的に「警察後援会廃止すべし」の声があがったので、山梨県の場合は後援会一本のものでなかったのですが、お付き合いに一応廃止に決定し、これに代えて財団法人山梨県民主警察中央協議会を設立しました。会長は知事が兼ね、副会長には『山梨日日新聞』社長・野ロ二郎氏と、元・代議士高野孫左衛門氏と私と三名が名を連ねました。

 三十八年知事の会長を野口氏に代え、高野氏と私と副会長になり、その後高野氏が死去し、野口氏も昨年死去しました。

 民衆警察協会の活動状況と廃止から、その後の財団法人山梨県民主警察中央協議会の活動の一端のわかる私の挨拶が、印刷して残っているのがありますから、これを載せます。

 

    日下部警察署管内民警懇談会(二十八年)

 

私は県民衆警察協会の会長をしております米沢であります。微力な者が先に立っているのでありますが、皆様方の深いご理解と格別なご協力によりまして、民警協会は漸次強化されつつありまして、平素誠にありかたいことと感謝している次第であります。この機会に厚く御礼申し上げます。協会の宣伝をするようで恐縮でありますが、これからの懇談のご参考にもと存じ、民警一体の愛言葉で進んできました協会の足どりと、私共の抱いている理想とを簡単に話させていただきます。

 協会の発足は終戦直後の二十年十月でありまして、その時の警察部長井関さんを中心に、私共民間人三、四名集まりまして、目本の民主化に伴う警察のあり方についてどうしたらよいか、の話し合いの結果、先ず県民全体の立場で、各界の代表者の会合をもってみようではないかということになり、

市町村長代表、青年代表、婦人代表、法曹界代表、言論界代表、元・警察官代表、農業界代表、宗教界代表、実業界代表の九名が集まり、警察の在り方を論じ合って踏み出すに至りました。

私は実業界代表として加わりました。それからこの懇談会を拡大しようと、各警察署毎に同趣旨の懇談会を組織し、活発な活動を始めました。私は当時、市川署管内に住んでおりましたので、市川民警懇談会長になり、十四の署にそれぞれ会長が生まれ、毎月一日会長会議を開き、それに県委員が加わって、総合的な研究を続けるに至りました。警察の民主化の裏付けとして、民間からの警察への後援も必要なりの考えが強くなり、二十一年六月現在の民衆警察協会が生まれたのであります。十四の懇談会は協会の支部となりました。一方では警察民主化の県民運動として、一方では警察の後援団体として活動を続けて現在に至りました。

 公演面に於いては、初め会員制にして会員から年八百円を出してもらい、三千名の会員で二百四十万円を集め、それをいろいろな節に支出してきました。この会員制度だと警察職員が牽制されそうな節もでてきましたので、三年前から公共団体の拠出に方針を変えました。県と市町村に、それぞれ補助金の割り当てをして、出してもらうことになりました。

 昨年度の実績を申し上げますと、県から一百八十万円、甲府市五十万円、その他各支部毎に管内町村に割り当て額を出してもらい、総額三百万円であります。この金の支出は警察職員の公舎建築補助とか、警察美術展覧会費用とか、教養費、体育費、福利厚生費等に有効に使うよう頭を使っております。

昨年夏、東京都四谷荒木町に警察寮を二百万円で設立し、宿泊所と警察連絡所として役立てております。

 さて精神面の民警一体の運動でありますが、協会発足当初は、

「警察は日本の民主化の邪魔になる一面もあって困る、もっと穏やかなもの、一口に言えば、警察よ、もっと弱くなれ」

との声が大きかったのであります。その後、時代の推移によって呼びかけも若干ずつ変わってきました。昨年五月一目の宮城前広場の事件等で、

「警察よ!もっと強くなれ」

の声が大きかったのでありました。

 昔の天下り式の強さでも困るが、安心して頼れる強さを備えてもらいたい、対立のない強さを警察に求めるようになりました。対立のある強さは相手が強くなれば負かされるので頼むに足りません。対立のない強さ、管内全体の住民四万名を代表する強さ、公僕としての強さに徹してもらうことです。私共今日反省しておりますことは、民警一体の呼びかけで、警察を一面に於いて弱体化した責任を感ずるものであります。

 

警察が民衆に溶け込むこと、民主化されてゆくことは大切なことではありますが、警察自体は治安確保に任ずるものであります。管内住民が枕を高くして眠れることに目標が置かれています。私共の好みの条件でその本来の使命にヒビを入れてはならないのです。正しさを強力に推進する強さを警察に求めたいのであります。本来の使命達成のため、民警一体の呼びかけを生かしたいのであります。本日の懇談会に於きまして、皆様からこうした面についていろいろなご意見を聞かせて戴きたいのであります。

   

 山梨県民衆警察協会解散式(三十年十月)

 

 本日ただ今、民警が解散することになりました。

終戦の年二十年十月、民警懇談会として発足し、ちょうど十年たちました。十年の民警の幕をおろすに当たり、十年をふり返って感慨無量なるものがあります。

特に今回の解散が自発的なものでなく、またよくいわれる発展的解散でもなく、八月二十三日付けの警察庁の「警察後援今は廃止すべし」という全国通達に基づいてのものであることに、割り切れない物足らなさ、もの寂しさを感じ、先見の明を欠いたという役員の責任、特に私の如き会長を勤めてきた者の罪の深さを感ずるものであります。しかし静かに考えますと、唯今天野知事さんのご挨拶の中にあった

「時は流れ、民警の生まれたのも時の流れ、民警の終わるのも時の流れである」

と解せられるのであります。……往くもの斯くの如きか、昼夜をおかず……と言った孔子の言葉が思い出されます。また鳩山首相の……明鏡止水……と言った言葉も思い出します。民警十年の功罪は時の流れに帰すべきものとして、その解散に対すべきことの正

しさを考えるものであります。

 本日で民警は幕を閉じます。民警は終わりますが、民警によって結ばれた私共のお互いの関係、袖すり合うも何かの緑で、この結ばれた縁は、お互いの人生のプラスの為に生かしたいと願うものであります。

 最後に自分のことで恐縮でありますが、その器でもない微力な和が会長に祀り上げられ、その足らざるを皆様に袖っていただき、本日まで時の流れに乗せられた形で過ぎてきましたことについて、平素まことにありかたいことと感謝しておったのでありま寸が、ここに改めて深くお礼申し上ぐる次第であります。

 以上簡単でありますが、解散にあたっての、感想の一端とお礼を申し上げ、解散の挨拶とします。

    

やまかい寮落成式(四十七年五月)

 

長い問、心がかりであった‥‥やまかい寮‥‥がこんなに立派に五千万円もかけて、鉄筋四階地下車庫と理想的なものが仕上がって喜ばしい限りであります。もう二十年の前になりますが、本店にもご列席の元祖さんが山梨県警務部長であった時、私と二人で、県警東京連絡所をと夏の暑い日に探し歩いて見つけたのが此処でありました。

宅地五十坪に平屋建て四十坪を二百五十万円で買って、‥‥やまかい家‥‥と名を付けたのであります。寮の成績が良かったので二階建てに大改造し、二階は警察関係の学生家にしようと考え、木材は身延山本山から寄附してもらい、資金には当時山梨県人会長をしておられた小林中氏に頼んで、小杜氏関係の会社から合計五十万円を寄附してもらい、不足分は後楽園社長に話して寄附してもらいました。その時の寄附名目は「警察官の子弟で東京の大学に通学する者の学修寮の増築」ということで賛成してもらいました。寮が新しく立派に生まれ変わりましても、こうした経過のあったことを銘記してもらいたいのであります。

本日の落成式まで、いろしろご苦労をされました関係各位に深く感謝し、祝辞とします。

 

この‥‥やまかい寮‥‥は東京都新宿区荒木町十二番地にあり、はじめ山梨県民衆警察協会の所有でしたが、三十年十月協会廃止になり、これに代えて設立した財団法人山梨県民主警察中央協議会に所有権を移し、四十七年五月大改造にあたって県警厚生課所管に移しました。

 終戦の年から数えて三十年間、山梨県警察の最右翼の後援団体の先発に立ってきたのです。               

(以下次号)

 






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最終更新日  2021年04月26日 15時05分54秒
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