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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年10月09日
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カテゴリ:飯田蛇笏の部屋

新しい作品の振幅

 

  飯田龍太著

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

余談になるが、先日、庭の家籬に蜜蜂の一団が飛んで来た。近くに養蜂の話も聞かないから、遠方から逃げて来たものだらう。腫れた黒い毛絲玉のやうになってゐるのを、近所の老人がすっぽり袋をかけて持って行ってしまった。新しく孵った女王蜂、若干の働蜂を随へて、勝手に巣から脱け出し、かうしてさゝやかの独立の一家族を形成ゐのださうだ。妙な聯想をした。

 叉、我々素人が見ると、一寸凄いやうな蜂の乱舞の中でも、玄人は平気で処理してゐるのを見掛けることがある。心得があれば決して剌されないらしい。ところが面白いことに、外気に対して蜜蜂といふのは素晴しく敏感で、急に冷え込んだやうな場合ぱ極度に神経過敏になり、こんな時に手を出さうものなら遠謀会釈なく剌して玉まふさうである。

 こんなことから、俳壇を聯想するのは、大変よろしくないことだと思ふが、しかし、俳句に限らず、戦後の文学全般に亘ってこれに似た過敏な神経が多過ぎるのではあるまいか。特に新人と云はれる人達の小説に好んで用ひられる手法にこんな感じがする。時間も空間も見定めのつかない感覚の飛躍が多く、造形力が乏しく、読後の混淆たる印象はどうにもならない。しかも自己の主張を通すためには、他の存在を抹殺しないと承知しない。

 天皇制の永い統治下に置かれた日本人は、敗戦後の今日もなほ、ひとつの理念に統一を求めたがる傾向が強く、混乱に馴れないと言はれるが、結局、かうした心理の裏を眺めてみると、劣等意識が基本になってをるやうである。顔色や体躯に感ずると同じやうに、伝統の血脈にさへ感ずる劣等感が基礎となった批判が目立つ反面、極端に反動的な旧い理念が擡頭しつゝあるのも決して故なきものではない。

 かういふ大人ぶった言分は好まないのだが、例へば、作品批評の用語を考へてみても、その単純明瞭なのに驚かざるを得ない。所謂社会性俳句に対しては、単にスローガンに過ぎない、詩なんて何処にもありあしないといふことで片附けるが、一方に言はせると、現実意識がない、心境的情緒的だ、花鳥謳詠だと二三語でケリはつくのだ。

しかし、ケリがつくのは自分の劣等意識を一時的に麻痺させてくれる自惚れだけだ。とどのつまりは、共に語るに足らず、といふことになって分蜂割拠する。割拠するのは勝手だが、勝手に民衆の詩と称し、民族の伝統と云はれては、普通の民衆は大変迷惑する。

 大体私は、文学であらうと、人間であらうと、かくしどころを持たぬものに信用を置くことは出来ない。今日の時代が「どのやうに生きねばならぬか」を主題としてをるといっても、その主張の影にある自己のかくしどころにこころの痛みを覚えない作家を、本物の作家として信ずることは出来ないのである。さういふ割切れない苦しみを感じとってゐる良心の中に始めて「今日に生きる悩みを知り、生漣た文学の在り処を感じとることが出来るのである。

 こんなことをマクラに言ふのも実は外でもないが、昨年九月の雲母に、「作品の振幅」といふ題で句集「雪檪」に触れ、その中で。

 

 「現在、作品としては既成作家を凌ぐものが生れて居らない、振檪幅内にある。といふ問題にしても、かういふ表面的な現象だけで速断するのは早計である。俳句のやうな短詩型で、しかも永い歴史を経て来だものに、さうさう簡単に目の廻るやうな新品が無闇に生れる筈はないのであって、一部の批評家が、策のすさびに書き上げる宣託通りには参らない。突然変異を考へることが自体無理な話だ。

一応既成作品の両極に、次代の振幅が匹く行き亘り、充実して、一気につき破ってゆく……かういふ順序を踏んで兎にも角にも一歩一歩前進してゆくより外いたし方ないのではないか。次代の作家にとっての問題は、その充実を如何に速かに行ってしまふか、既成作品を如何にして消化しっくすか、といふことが当面の間阻である云々……。」

 

 と書いたところが、博読強記な編集者から、……一年を経過した今日はどういふ結果になったか?……それを知らせてほしい……と言って来た。一年、といふ責任期間を置いたつもりはないが、しかし今日の時代は、すべての生活の上に驚くべき急速な変化を一ケ年の才月の上に支らせて居るのであるから、かういふ時代の必然的な圧迫が俳句の世界にも考へられつゝあるものと観念して、若干の作品に触れてみたいと思ふ。文の性質上、作品の鑑賞風になることを許されたい。

  

早乙女の股間もみどり透きとほる  森  澄雄

 

先に触れた「雪檪」の作者である。卒直に言って、期待するこの作家に、一年の才月は必ずしも編集者の設問に速答出来る程、大量収穫は齎(もた)さなかったやうであるが、しかし、近頃筆にする交を読んで感ずることは、矢張り、自らの苫悶に忠実であり、作家の責任を負ふた誠意に充ちて居ることである。この点、西垣脩氏の文も共感するものが多いが、兎もあれこの近作はその労力が報ひられたものと云へよう。

  

水浴に緑光さしぬ脹脛(フクラハギ)   蛇笏

  泳ぎ女の葛隠るまで羞(は)ぢらひぬ 不器男

 

といふ作品が今思ひ浮ぶが、二作共に美しい句だ。これに比してこの森の作品には、視覚の美を分析する前の衝動的な驚嘆と差恥が把へられてゐる。豊かな生命力に対する驚きと、都会人の感覚にひゞいて来る羞(はじ)らひとが、点景の美を感じとる前の姿としてダイナミックに表現されてゐるところに新しさがある。「雪檪」にある、

  

炎天にみどり出てくる円舞曲   澄雄

 

と感覚的な把握は一脈共通するが、その進境を認めたい。露出した都会人の膚に麻輝した神経が、農村の豊かな生命に触れて、かへって自らのこころのかくしどころに含羞した態度の表明は卒直である。都会的な感覚で農村の姿態を把へるといふ手法は、三島由紀夫の作品(『潮騒』等)のある種の成功に貢献してゐるといふが、単に把へる、といふことだけでなく、そこに把へたよろこびを盛り得なければ意味はない。劣等意識を感じとるのはかまわぬが、それを越えた喜びにみちびかなければ価値はない。

 蛇足だが、「股間」といふ表現に奇妙な感じ方をする人は、田植ゑする乙女の服装で改めて思ひ浮べる必要があらう。「自らのこころのかくしどころ」といったのはこの点である。

 

      母の急病

  遠空の稲妻貫きし一通知      保谷小竹

      作業療養

  黍挘(むし)ぐや相癒えし背に雲湧かし

      ある喜びごとに

  ひらく芝前空嶺々につながりて

 

夫々頭書があるが、特に選んだわけでもない。ただ、頭書に過重の負担をかける傾向は私も賛し難いが、作品に調和した場合の力を無視するものではない。むしろ、短詩の持たない「聞」といふものが与へられることによって、感銘を一団と加へる作用はこれからもどしどし活用すべきだと思ふ。

 それはそれとして近頃感銘した作品である。

作者は、病臥数年余に及び、近時漸く健康を快復しつゝあると聞くが、後二句にその感情が鮮明に表現されてゐる。精神は、肉体よりも一足先に、全く健

康を快復してしまった。病中多くの佳作をなし乍ら、治癒後かへって停滞を見る作家が多いが、この作者はむしろ癒後の今後に期待がかけられるものと思ってゐる。温健な作風であるが、作品の振幅は充分極に亘り、若々しい生命力は極を越える力に溢れてゐる感じがする。特に第三句の措辞ゆ巧妙である。

従来の手法からすると、山々が空に連なる、といふ表現をとるところであるが、眼前秋爽の中に開いた芒から、首(こう)べを上げて徐々に前方の碧空から嶺へと瞳を移す感情の起伏が波うって伝はって来る。芒をカツキリと把へた目の確かさの中に、これまでの基本的な鍛練を覗ふことも出来よう。苦悩を経て知ったよろこびは、表面に現れぬ瀧さを宿す。いい例証になると思ふがどうだらう。

 第一句は、切迫した呼吸の中に時間の流れを含め得た作品である。叉、非常に心境的でありながら、具象性を失ってゐない確かさがある。

遠稲妻を貫いたものは、作者自身の心であることは勿論だが、同時に一片の通知(電報?)そのものも、ひとつに重なって闘者にひびいてくる。「一」の一字はこの場合甚だ効果的な作用をしてゐる。まづ、現代俳句が到り得た表現の極を示したものと云っても過言ではなからう。

 

  夕日沖へ海女の乳房に蛇唸り 沢木欣一

鉄気(かなげ)井戸タぐれどきの海女の尻

塩田の黒さ確かさ路かがやく

 

所謂、作品のうまみといふものが表面から消えて、作者の持つ意図で評価を定めようとする傾向は、これ又俳句だけに限らぬ全般の傾向であるが、かういふ時代意識に抵抗を感じない程、暢気(チョウキ のんびり)でも困る。作品の、ほんとうの意味の「うまみ」といふのは、言ひかへれば。個性の巧妙な表出といふことになるが、個性が失はれて味気なさを知らぬ文学なんて私には信じられぬ。さういふ味気なさは、丁度裏返しに、前時代の俳句からさんざん味って来た筈である。

社会性俳句の空虚さは、ここに原因があると思ふ。

しかし、その問題は別に書くつもりでをるから、ここではあまり触れないことにするが、この作者が、論議を一応濾過した生マの神経で対象を把へた点に、この作品の成功とうま味かおる。

 表現のうま味を簡単に説明すると、「海女の乳房」・「妖気井戸」・「塩田」に夫々作者の意図が置かれてゐることは言ふ迄もないが、下五にすべて表現上のウエイトをかけて、唸る蛇や、ゆたかな尻や、かゞやぐ路に情景の要を絞ってゐる点てある。又、海女といふものゝ説明や、鉄気井戸の単なる報告に終らなかつたのは、無垢な精神の所産であらう。

 社会性論調を一応濾過した生マの神経、といったが、むしろ、論調に傷ついた末に見出した新たなよろこび、といった方が正しいかもしれぬ。さういふ傷みとよろこびを自覚出来ない限り、社会性俳句も詩の埒外に置かれる外はあるまい。個性もうま味もそれからのことだ。

 言ひ落したが、この作品も亦、都会人的な感覚で漁村を把へた一例である。

  

海による光りの飛行落葉にも    石原八束

  原爆地子がかげろふに消えゆけり

  外套重し廃墟が占める夜の位置

  

最近刊行された句集「秋風琴」中の作である。あまり身近な人の作品であるから、多く述べることは避けるが、新しい作品の振幅タを示すものと考へてゐる。中村草田男氏も言うふやうに、多分に高踏派的な傾向を持してゐるが、私小説手法の行づまりと、瑣末な感覚描写に堕した一極を破る新鮮なロマンテイシズムは得難い資産だ。三 句共、異った角度から光線が当てられてゐることに注意したい。

 

朝風のしづかな密度蝉音あふる   野沢 節子

炎天下僧形どこも灼けてゐず

寒の百合硝子を声の出でゆかぬ

 

  特に前二句は、繊細だが意外にヴアイタリテイのある作品だ。そのヴアイタリテイは、病者の感性に溺れない楽天性と、詩的な情緒に浸るまいとする理性から生れて来てゐるやうである。むしろこの点で第三句は、楽天性が理性に負けて、感官で支へた部分の多い作品であるが、

   

風邪臥しの薄眼にみやる蝉の昼   節 子

 

の近作と合せ考へるなら、兎も角、オリデナリテイの豊富な作家であることが頷かれる。季節の変化を敏感に呼吸する従来の俳人感覚に、プラスする内容の「密度」を持ったとき、更に新鮮な位置が生れるのではないか。その密度を知る以外に作家の智慧といふものはない。

 未だ、主題に添って触れたい作家が二三あるけれども、このくらゐで止める。なほ、社会性の新しい意図にみちた振幅については、別に触れるっもりだ。






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最終更新日  2021年10月09日 18時46分46秒
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