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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月09日
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カテゴリ:文学資料館

『富士日記』加茂季鷹

 

津久井・富士・甲斐日記(日記記行文)に観る甲斐(2)

 

   丸山光重氏著 

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

  『富士日記』

 

「富士日記」は、加茂季鷹の著になる。

季鷹は京都の上賀茂神社の神官で雲錦亭と号した。

初め有栖川富の門に入り和歌を学び、後江戸に移り加藤千蔭に交り、狂歌もよくした。

寛政二年(一七九〇)七月十八日江戸を出発、吉田の浅間神社の神官である刑部国仲の案内で富士登山し、河口を経て甲府に至り、

島田式穀らに伴われ酒揖宿、差出の磯など歌枕や旧跡などを尋ねて、八月十二日に江戸に帰着した間の日記である。

 

甲斐とかかわる部分を中心にみていこう。

 

 ことし寛政二年(1790)、富士にのぼりて見むとて、かの山のふもとにしづもませる浅間社のみやつこ別邸国仲にはやうちぎりおきたれば、かりそめの旅よそひして、供とする人ひとりかい連れて、夜のあくるころほひ亀しまのやどりを出,

わがのぼらんとするふもとはヽ甲斐国鶴郡なれば門出よしとてヽ家なる妻子よろこびあへり。

 

というように優雅な文章で書かれている。

 

上野原の坂本にながるゝ川はヽ相模国つく井のあがたのはてにて、川よりをちはとぞヽすなわちつる川のうまやにながるゝつる川をかちわたりすとて、

 

 かひの国つるの郡の鶴川を

つるはきにしてわたりつるかな

 

ほどなく野田尻といふにいたる。長峯ヽ谷のくぼなどはまた山路にていとあつし.きのふけふの空は、みなづきの照る日にもまさりて、野山の土も石もやけたるやうにてふみたてがたきほどなり。けふは猿橋までのあらましなれど、日もくれいたうこうじたればヽ大目といふ所にやどる。

けさより道づれとなりにし富士の行者、としは六十におほくあまれりといへど、脚はわがどちのおよぶべくもあらず、いと健なり。

いまひとりは武蔵の雑司谷のほとり、野寺の満行寺の阿闍梨にて、諏訪の湯あみになん我等につきまつれる八幡の御神は、そのかみ源義家朝臣、東の蝦夷をむけたまひしとき、調伏したまへる神にて調伏の八幡宮と申したいまつりて、そのかみは、寺も迦藍づくりにていとおほきかりしを、佐原業平卿、むさし野を焼たまひしをりに、寺はもとより、ふるき鏡もやけうせぬ。野寺のかねのと詠める歌も、わが寺の鐘をよみしなりど、いとひがみたることゞもをヽしたりがほにかたるは、なかなかおかしくて、足のいたさもかつはなくさみけり。すべて東路に、八幡の御社のおほくありて、いづれもいづれも義家朝臣の勧請となり、先に大なる仇を控えて、征伐にむかhる軍の道すがら、五町十町ばかり隔てつ勧請したまはむことあるべくもあらずと、新井君美主の書き置かれしことさへ、ふと思ひ出せば、それだにうけがたきをや。

廿日朝とくいのめを立て、例の山坂をこゆるに、座頭転ばしとか、里人はいひて、かたへに谷に落ちいりしめくら法師の塚も見ゆ。げに石多く、あやふきかけをのぼりくだりつゝ、島沢といふにいづ。

 巌崩すかしこき道をわけ来つゝ見かへる山に雪ぞかゝれる。なほゆきゆきて、猿はしのうまやにいたる。名だたるはしを見るに、岸にはいと大きなる岩はそばだち、水の深さは、いく千もろともしらず。色は藍のごとしてうづまき流れ、橋の長さは十あまり一丈といふにすべて柱はなく、岸より岸に桁をさし出しつ大こなたかなた組み合せて、板を渡し、欄干らんかんいと高く構へたり。水際まで深さ三十あまり三ひろありとぞ。しばしたちとどまりて見下ろしたるに、眩めくこゝちすれば、とくすぎぬ。

こゝを猿橋といふは、いにしへましらのつゞきひて、蔦をくみあはせつゝ、かなたの岸にうち渡して、そが上をやすらに行き交ひせしにならひて、かけそめしよりの名なりといへど、西沢・大目などつづきたれば、例のしひごとなるべし。此厩にしばし憩ひて、釣橋のすくにいたる。かの猿工みをやらしらざりけん。橋はなし。こゝにて夜べ業平郷とかたりしすけにはわかれ、修行者のあない(案内)にまかせて、谷村といふ所に行て、昼のかれいくふ。猿はしにてかひし、大きなる鮎を焼かせて食ふに、味はいとよし。此家の前に東漸寺とて日蓮宗の寺あり。そこをさして此里人はさらなり。近き渡りより、来つどへるといふ人数しらづ。あやしくて主にとふに、此寺のひじり、身まかりて、けふなんはうふりのわざし侍るを、見侍るなるといふに、猶怪しくてとふ、にすべて此わたりには、かの宗旨の寺は、これひとつにて外に侍らねば、珍らしみて、かくつづへるなり。されば九里十里へだちたる寺々より、同じ宗旨の法師、さあらぬと来訪ひて、其作法し侍るなりとぞ、とばかり有て物のねきこゆれば、菩薩十天楽などやしらぶらむ。所のさまにも似ぬわざなれば、耳おどろかし侍ぬ。楽人はいづこよりぞと問へば、十里あなた(向こう)甲府よりとぞいふ。さて午後もすぎぬれば、いざやといふに、きのふの山坂にて、足が腫れ、まめなどいふもの出来て、いとくるしければ、こゝより馬に乗りて、申の時ばかり心ざせる吉田里にいたりて、国仲がりつきたれば、主よろこびて、むかへすゑたり。客入居にて、去年の春にや、強ひてのぞまれて、わがかけりし仰岳の額を、欄間に掲げたり。げにたがはず、富士は清少納言が、つくり出たりけむ、雪の山のごとく、ただ庭のうちなるばかりちかくてたかく、盆などにもりすえだらむやうにて、聳えたり。

 

日本のやまとの国のしづめとも

なるてふ山をけふ見つるかも

 

あるじ国仲

 

露しげきふじのすそ野の萩がえに

光をそへてやどる月影

 

といへりければ

 

萩がえの露をよすがにやどりても

見るかげうすきあり明の月

 

こよひ幡野正章来とぶらへり。はじめてあへるものからあるじの物がたりにて、はやうよりきゝつとて、何くれとあるしもろともにかたらふに夜もふけぬれば、またあすとてかへりぬ。

 

廿一日朝とくおきて、まづあふぎみれば、

 

こと山にしらぬ朝日を雲ゐにて

ひとりまちとる富士の高嶺か

 

けふ、あすは、諏訪の社の祭りとて、暮方より、家ごとのまへに、焚き木、一抱えへにも余るばかりの囲みにて、高さは弐間一尺といふが、いにしへよりのさだめといへれど、中には五六間ばかりにて、馬におほするに、おほよそ十駄ばかりなりといふ。つい松を、たてならべたり。町の長さ十三町ばかりなるに、残れるは、忌ある家のみなれば、おほかた百数八にも及ぶべきが、日のくるゝを待ちて、一時に燈しつけたるさま、秋の夜の闇もあやなく見えたり。されどいかに風のは

てしきをりも、昔より、今宵の大のあやまちは、さらになしとぞ。いともかしこき神の御稜みいは、末の世とも思ひなされぬわざなりけり。今宵諏訪浅間社に詣づ。名だたる大鳥井は、まことに名にたがはざりけり。そもそも此御社は、延暦七年(七八八)に、甲斐守紀豊庭あその、宮づくりし給へりとぞ。

祀れる神、富士浅間は、木花間耶姫命ノ命藤武神、諏訪の方は、建御名方命建岡神、を祝へりと、里人のくはしくいへり。鳥井のたかさ、すべて六丈二尺、額は三国第一山とありて、縦一丈二尺、横九尺、筆は、二品良怒法親王。後ろの二社は、瓊瓊ににぎのみこと大山祇令おおやまつみのみことをいはひまつれるよし。国仲しるべして、宿りに帰る道、諏訪の社の外(と)つ富の神主、佐藤上総が家に行く。此の上総は去年故郷にて逢いし人なれば、大御酒などおろして、いさきかもてなすなまなれど、こよひのうちに奉れる神籤、七十五度にて、其品も七十五種ありとて、いといそしきけしきなれば、とくかへりぬ。

廿二日、今日は祭りの相撲ありときけば行て見るに、大鳥井のねきなる森の、いさゝかくぼかなる所にて、住まふなりけり。小高き所に、柴をり敷きて見るに、いと興あり。ゆふつけてかへさに、四位のうへのきぬ着たるが、日蔭の糸をかづらきて、馬にのれる宮人あり。いとめづらしくおぼえて

 

石上ふりにし神の宮人

とひとも見るかにかづらくやたれ

 

と、ふる歌めきたることをくちずさびつゝ帰りて、国仲にとへば、それなん、神主小佐野なにがしとて、五位なるが、都にのぼれけるをりに、何がしどのとやらんたまへりとて、四位のうへのきぬきるよし、いぶかしきことにこそはとて、所のものも、物のこゝろしりたるは、うけひかずとぞ、日かげのいとは、みやびたれど、此うへのきぬぞ興さむるわざなりける。神わざやくをへつとて、上総きたりて夜ふくるまで物がたりせり、彼七十五度はいかにしてかくはやくをへにけむと、きかまほしきこゝちす。

 

廿三日、よべよりいささか雨ふり出たり。けふは御山にのぼらんとて、心がまへしたれば、雨やめてといふは、ほいなきものから、此わけ来しをきかば、やがて来とぶらふべき倫丈法師なども、ちかき村々よりねがへりとて、いにし十七日より、食ものを断ちて、七日の祈はじめて、けふなんみて侍る日なりと聞けば、わがあらましのたがふは、かへりては喜ぶべきことにこそなど、主にかたらふほどに、かの聖より消息して、とくまうで来ぬこと、この祈りにかゝりてなど。ねもごろに聞えたり。歳も二十歳に二とせたらぬ法師の、さるはれの祈をして、いさきかなれど、かくしるしあらはせること、いと頼もし。文も七日ばかりをものたてる人の筆のすさびとも見えず。かへすがへすめでたしかし。

午の時ごろより雨はれたるに、とく門に出で見たまへ、めづらしきもの見せ

参らせむと、あるじのいへれば、出て見るに、其夜ふりけりといひしにたがはず、峰のかたいと白くつもりたり。

 

名にしおふ富士の高ねも昨日けふ

おちひかけきや雪のしらゆふ

 

此ごろ浅間社の広前にて。

 

  五百重山かさなる道をわけ来つゝ

洗ふぐこゝろは神ぞしるらむ

 

塵ひぢのつもりでなれる物ぞとは富士の嶺しらぬ人やいひけむ。と思ひつづけしを同じく書て奉れと、あるじのすゝむるにまかせて、かの四位の抱きし、五位の神主のもとに国仲して奉りつ。また朝夕と

 

言の葉のみちしるべせよ富士のねの

ふもとにしげき露のしたくさ 

 

二十四日、けふは空晴、高峰の雪も消にたれば、いざやとて出たつ。かねては主しるべすべかめりしを、このごろ幼子の疱瘡もがさやめれば、すべなしとて」、強力と名づく者を添えて案内あないとせり。

卯の半に家をたちて先大鳥居のうちなる、浅開社に詣でて、登山門通りて、馬返しと字なせる、鈴原まで、すそ野三里がほど馬にのりて、そこより徒歩かちにての登る高峰までを十に割りて、

一合・二合とふるは、大方一里・二里といへらむが如し。

三合目に御室権現と申は、木姫開耶姫(このはなさくやひめ)。

かたへの祠は、信玄僧正祝ひたるにて、こゝまでは女も登れりとぞ。

四合目、御座石の社は、いわ長命ながひめ

いさゝかのぼれば右に鳥井あり、小御岳に詣づる道なり。今は石尊権現といへど、日本武尊やまとたけるのみこと経津ふつ主命ぬしみことを併せ祀れりと、かねて聞き置きたれば、帰へさに詣でんとて、ひた(ひたすら)のぼりにのぼる。

中宮と額うちたるは、大日おおひるめみことを鎮め祭れりとぞ。

ふもとより此あたりまでは、木立ふかく、見なれぬ木草おほかるなかに、富士松といへるは、世に言ふから(唐)松(落葉松)にて、いと多く、雪にされたるなるべし。からめきてたちなるべるさま、いとおかし。

大かた一合ごとに憩こひて、汗おしのごひ(拭い)つゝ黒き色したる茶を、妖しき器して飲てのぼるに、あとより湖の涌ごとくに、雲たちのぼりて、見るがうちに高ねをさしてのぼりければ、

 

ますらをのたけき心はおこせども

雲のあしにはおよばざりけり

 

雲は馬頭より生ずとか。もろこ(唐)の人のいひたるもさることながら、そは馬もかよひたらめ。此山は鳥だに見えわたらず。雲もかくはるかなる。麓のかたよりきそひのぼれば、かゝるたぐひはまたあらじとぞおぼゆる。

六七合あたり、かま石、烏帽子岩などいふ所には、草も木も全てなく、焼たり

とおぼしき物から、紫、あるは黒色したるいさごのかどだちたるを、からうじてよぢ(攀登る)つゝ未の時ばかり、八合目の石室につく。おほかたはこゝを泊りとして、明日早朝つとめて、頂きにはのぼれることふ聞たれど、思ひのほか日も高ければ、いかにと強力にとへば、うべ今より宿らむは無益なり。しか仰さば、とくこそなどいへば、しばし憩て登るに、九合より上のさかしさは、誠に例へむかたなし。例のますらを心振り起して、こごしき岩角を攀じつゝからうじて登りはてゝ見るに、頂きは思ひしよりも平かにて、中を見おろせばヽ窪かなるが、底はすぼみて幾千尋ともはかりがたし。いにしへ煙の立ちしあとゝ知られたり。

鳴沢はいづことしらねど、おほきなる川水の、谷にひびきてながるゝ音にもきこえ、はた松のむらだちに、秋風しらぶるやうにも聞なされたり。こは背面のかたにて、石のくづれ落る音なりといへどことばに、さることあらむとも思ひなされねば、とにかくに、此中くぼのわざならんかし。(山頂の)めぐりは一里ばかりありて、釈迦の割石ヽ賽の河原などいふ処々ありて、巡り拝むなり。まはりたまひなんやと、あないの人いへどうちぎきもゆかしからぬうへ、其所々も、大かた見わたさるれば、そこはめぐ(巡)らで、右のかたに原のごとき所有に、いささか下りて見れば、是なんお山水なりといへり。ちひさき井(井戸)なれど、いかなる日照りにも枯れずとぞ。うべ、今年の夏だに枯れせねばあやしき水なりけり。いまふたつおなじさまなる井あれど、そこは水かれて、雪いさゝか消残りたり。思ふに山水を三水と、ひが心えせしなり。sの辺りの石も焼けたらむと見ゆるが、おほきが中に、むらさき赤白等が混じれるを、山裾にて乞ひ祀る。

もとのいただきのぼりたる頃は、日も西にかたぶき、わけのぼりしかたは暮たれば、山のかたち、はるかなる海面かけてうつろひたり。朝日にはまた、西にうつろふとぞ。箱根足柄山なども、ただこの麓の如く、見おろさるれば、まして其ほかの山々は、たちと一つに見えたり。また雲たちのぼれば、雨やふらむと急ぐに麓より昇れる雲は、いさゝかも恐(かし)こきことなし。

此中窪より雲もたち、風も吹きだせば、かならずあるゝとなむ。炳はたえてなしやと問へば、いまも時にふれて立のぼれるを、里人は見侍るとぞ。くれはてなば、かの石角いとゞ恐からむとて、宿りと定めし八合目の石室にからうじて下りつきぬ。此山のあるやう五合目までは、かりそめの板屋なるが、六合めより頂きまでは、大きなる巌をたてにとりて、三方をも岩もて囲みたるが、二間に七間ばかりなる中に、土の上に板をならべ、むしろをしき炭櫃をかまへ、雪の氷りた

るを、桶の上におきて、其したゝりをもて、茶をも煮、いひをもかしくなりけり。うちぎきは水室めきて、きよらなるやうなれど、雪はくろき土の中より掘いだせしまゝなれば、砂もまじり、灰汁もありて、溺れるさま、湛えおたる雨水よりもいますこしむづかし。もとよりさる石室の中なれば、誠に飢をたすくるのみなり。

六月朔日より山をひらきて七月廿五六日までにて、人ものぼらず。岩屋も岩戸をかためて、下り侍ぬなり。されど、この頃となりては例の年は登る人もなけれど、今年は暑き年なれば、かく人も侍るとあるしかたれり。今宵此室に宿れる人、法師四人、行者一人、これかれすべて十人ばかりなり。山づみの御こゝろ和み給へるけにや。いさゝか風もなし。夜ふくるまうに霜月ばかりのやうに、ひやゝかなるに、のみてふ虫のいと多く、さらでも此山の上に、かく寝ぬることよと思ひつづくれば、めもあはぬを、人はさも思ひたらぬにや。こうこうといびきたかくして、熟睡せるさまに、いとど心すみて、さびしきことただ思ひやるべし。やゝ子のときも過ぬらむと思ふころ、尿せまばしければ、供のをのこを起して室の戸を明させて、やをら出て空をみれば、星の光きらきらとして、東のかたは月しろとおぼえて、海のはてなるべし。横さまにたなびきたる雲間より、光はのめけば、手あらひて出るを待つ。法師たちも宵にちぎり起きたれば、おどろかするに、とくめさまして、同じくうづくまり居て待つ。かの行者も出て、何やらむいと高らかにとなへて、珠数おしもみゐたるは、すこしかしましきこゝちす。室の外三四尺ばかりは平らかにて、下は這いのぼりし山路なれば、いとあやふし。とばかりありてさしでたり。

 

はたちばかり重ねあげたる山の上に

廿日あまりの月を見るかな

                                                  ゛

また日の出を見んとてしばし枕をとる。

 

廿五日夜べのごと光はのめけば、例の室の外にいでたるに、此みゆるかぎりの、国々の野も山も、見おろせば、おしなべてくが地とみゆるに、雲はこの山の帯のごとく、幾重ともなく、綿をうちきりしたらむやうに見ゆ。

さて東南の海づらいとよくはれたるに、八重の塩路の、汐の八百合に、浪をは

なる日の御影、さらにこゝろこと葉も及び難し。ちか頃肥後の玉山ときこえしはかせの記に、つはらにのせたり。ひらき見るべし。

 

ふじのねにふりさけみれば青海原

とよさかのぼる天つ日のかげ

 

かくて朝のかれいひとて、あやしき粥やうのもの調じ出したるを、いさゝかたうべて、人々は高ねにのぼり。我輩三人は二王の前にさゝげしやうなるわらぐつを、うへにはきそへて、左の方へ横ざまにをれて、五合めまでは砂走とて、歩くともなく、た〲滑りにすべり下りて、砂拂いといふ所にて、かの大藁沓は脱ぎしてて、また左の方へ十七八町ゆけば、心御岳御社なり.此わたりは、きのとて、葉のかたちは桓のごとく、実のいと赤くて、南天燭のごとき。ちひさき木あり。こはさきざき、国仲より、実をしほにつけて、おくれり。(略)

けふはかちなれば、こゝろのまゝにわけゆくに、をみなへし(女郎花)、きちかう(𠮷交)、われもかう(吾亦紅)などをはじめて、知る知らぬ千ぐさの花咲みだれたり。

 

時しらぬたかねの雪にあえませば

千草もとはににほふべうなり

 

と、思ひつゞけて、われもたをり、人にもをらせて、うまの半ばかり、吉田の里に帰り入りたれば、国仲いで坂むかへにとて、破子やうのものてうじたるを、いますこし過して、麓まで迎へまゐらせむと、設けたるを、こよなきはやさがなといひて、

 

みがきなす君がこゝろの先見えて

四方にくまなくあふぐふじのね

 

といへりければ

 

ふじのねにいかでのぼらんは山づみ

しぎ山づみのめぐみかけずば

 

夜に入りて倫丈六とこ、正章など、喜びにまうで来て夜更くるまで物がたりし、よみおきし歌ども、すみくはへてよとて、おきてかへれり。

 

廿五日より廿七日までは、こゝかしこに行かひ、あるはたにざく(短冊)をかき、古今集のなかの、おぼつかなき所々をたづねられつゝ、日を暮らし夜更くるまで、物がたりせるついでに、此国の賤山がつの臼ひき、あるは田うゝるをりなどに、詠たへる歌とて、語れるが、いにしへおぼへて、おかしければこゝにしるしつ。

 

麦搗うたに。

 

色よき女の薄化粧、花ならば散りても咲かせたいもの

  西殿と、東殿と、開の垣ねの杏(からもも)、

紅のまゆをひらいて、これへおちよからもも、

 

田うゑ歌

 

  けふの田の太郎どのは、

朝日さすまでかよふた、

朝日はさゝはさせ、

お帳台はくらかれ

  君が田とわが田はならびて畔ならび、

わが田へかゝれ君が田の水

 

廿八日朝とくよし田をたちて、甲府におもむく。里ばなれまでこれからおくりす。富士を左に見つ大川口の駅にちかくなれるわたり、広き野におほきなるいしの、やけたりと見ゆるが、いとおほかり。

こはヽ三代実録ヽ清和天皇ヽ貞観六年(864)六月十七日。

甲斐国申す、富士大山・忽有暴火焼・砕崗

・草木焦・土礫石流。埋ハ代郡本栖併両水海、云々、

とたたへし所に、川口の海も見ゆれば、其をり焼たりし石なるべしとおもへば、見所なきもの八日とまるこゝちす。ちかころ、宝永(4年)にも焼たれど、そは此渡りならで駿河国なること、人皆知れることなり。

川口湖はいと大きくて、左のかたに見、山に沿ひてゆく。此わたりに湖およそ八ありといふうち、川口はかく古き文にも見え、また此すこし西に、せのうみとてあるは、万葉集に石花海と、よみし所なりとぞ。西をせのこゑにかりて、西海とかきしを、いまは誤りてにしのうみといへりとなんいへり。万葉にかく其山のつきめるとよめるも、此海の事を聞きたがへて、ゆくりなくよみし成べし。今も池沼などはいふべくもなき湖なればうみといはむ事論なし。さるを山上に在と思へるからに、沼池をも海といへる例有などいふは、皆こゝを詳しく見ぬ人のいへぬなり。鳴沢といへるも山の焼くる音にて、鳴沢なりと其国人国仲もいひしなり。今山上に里人御三水とてあるは、先にいひし如く、四斗樽ばかりの溜り水なり。詳しくはすでにいへり。さて此里にも、浅間御社鎮まりまして、延喜式に

八代郡、浅間神社と出たるは、則此御社なるが、近ごろ都留郡に。属しとぞ。右のかたにてちかしと見ゆれば、詣ででまほしけれど、急ぐ道なれば、心にまかせず、遥かに拝み奉りてすぎぬ。

 こゝよりやうやう登るに、例の汗しとゝなり。此の手向けは御坂とぞいふなる遊行二代真数上人家集に、

甲斐国より相模へ越えけるとき三坂といふ山にて、富士の岳を見やりて、

 

雲よりも高く見えたるふじのねの

月にへだたる影やなからむ

 

と、見えたり。

 

足柄の神の御坂と詠みしはあまた見しやうにおぼゆ。そは異なり

   

ふじのねをそがひに見つき分のぼる

山の高ねは麓なりけり

  

されどたむげまでは、五十町ばかりありといへば、たやすからむやは、

  

しほ(塩)の山さし出の磯も見まほしみ

からき旅をもわれはするかな

  

,口遊みびつ鮒犬からうじてのぼりはてたれば、甲斐がねにつづける山々、はるかに見え、こしかたは、富士の嶺雲井に聳えていとおもしろし。(略)

 

と続くが、以下和歌を中心に記述してみる。

 

❖ 八月朔日、躑躅が崎にて

   石ずゑのあとだに草にうづもれて

むなしくそよぐ秋のゆふ風

 

❖ 甲府の伊藤可春に乞われて

    水ぐきのきよきながれをせき入りて

よもにわかてる宿ぞこのやど

 

❖ 書侍るついでに

    言の葉の花の香とめていはね

ふみかさなるみちを分つゝぞこし

 

❖ 府中朝気村の馬場徴信をとひ

    大かたの野べとおもはばゆふ露に

袂そぼちてわけいらめやは

  

❖ 三日あるじつとめて、花のもとに、えぼうしに笛かきたる絵と、柳のかげ

に無絃の琴をおきて、かたへに菊かきたるをもて来て、うたよみて、かき

てといへるを、いなひたれど、しひのぞみければ、よみてかきつく其歌、

    桜花匂ふ春方はちりたりと

吹笛の音も心あるなん

    青柳のいとたえにたる玉琴の

あたりに菊の花も匂へり

 

❖ 酒折の宮で

    千萬のあづまのえみし平(む)けませし

神の御稜威(みいつ)を仰がざらめや

 

❖ 社頭秋風といふ題で

    夏過ていく夜かねつる神垣の松に

しき秋風の声

    ゆふしでのなびくも涼しちはやぶる

神のいがきの秋の夕かぜ

    幾秋かもりの松がえ枝ふりて

神がき清くそよぐ夕風

    吹となきゆふべの風のしらべさへ

秋にすみゆく神垣の松

立ち並ぶ木々の梢も神さびて

秋風すずし坂折の宮

 

❖ 在原塚にて

 

 川田の平橋庵敲水、俳諧歌をすきで大かた此くにゝはならぶ人なしとぞ。

   

春秋の花も紅葉もとことはにさき

にほひたるやどぞこの宿

  といへりければ、かへし

   春の花秋のもみぢの色も香も

しかじとぞ思ふ君がことの葉

 

❖ 差出の磯で

   今はまだ川にさし出の磯千どり

ふりしむかしのあとをとめけり

  

かくおひつづけて、千鳥はいまも侍るやととへば、つねはいとおほく侍るなりとて、

 うちむれてけふはさし出の磯干どり

都のつとの一声もがな

   (略)

 故郷にさし出の磯のいそがすば目をかさねてもかたらはましをといふにあるじかへし、

   秋あさきさし出の磯の初もみぢ

おもわすれせでまたもとへ君

 

❖ 石森の宮で

    あし曳の山路へだてゝあし引の

山なす千々の石なりの宮

 

やゝ日も西にかたぶき、雨も降出ぬべきけしきなればヽいそぎて元克が家にヽたそかればかりひぢがさして帰りぬ。

  

あるじ

うま人のとひ来まさずばいたづらに

庭の真萩はちゆかましを

 

といへりければ、

    われはもよ友がきえたりから衣き

ならの宮の友がきえたり

 

❖ 川田にて

    千世かけてすむべき宿としられけり

庭の池みづきし松がえ

    底清くてらす明松にいさや川

いさとこたふるいろくづやある

 

❖ 笛吹川の岸で、人々と別れをつげて

    浪の音も秋もしらべに成にけり

笛吹川の水の朝かぜ

 

❖ 笹子峠をすぎて

 

初雁里といふに出、東鑑に波加利といへる所なりとぞ、時しもあれ、里の名いとおもしろけれふ

    いつの世に誰聞きそめて名づけけむ

あら山中のはつかりのさと

 さとの名をわが身にしる人のありげにもなしや。

 この次の里を、花咲といへるときけば、かならず萩の花なるべしと思ひつづけつゝ、山路分ゆくに、日暮れたれば、大月といへる駅に宿らむとてきかするに、いたく荒たる家なるが、ことにきのふの水にて、(略)

   故郷の軒もる月は秋ごとに

住あらしてぞすみまさりける

 

と、それぞれ趣きのある歌が載せられている。

 






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最終更新日  2021年12月09日 05時53分27秒
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