カテゴリ:歴史さんぽ
甲州 天草屋敷 今ある天草は江戸期の栽培種とは無関係 下庵 伊沢凡人氏著 (医博・漢法科学財団代表) 中央公論 『歴史と人物』昭和57年刊 一部加筆 山梨県歴史文学館 ……何年に……とは書いてないが、平賀源内は甘草について、 阿部将翁軒ガ…甲斐ノ国ニ至リテ得タリ。 今東都及ビ駿府営園ニアルモノ是ナリ。 と述べ、更に、 駿府ニテハ甚ダ繁茂ス東都ニテハ繁茂セズ。 とも記している(『物類品隨』)。 故白井博士が阿部の甲州行きを享保八年十月としていることは前記したが、源内はこのことを指して言ったものであろう。 そして源内のこの本は丹羽正伯が上於曽村で甘草の実物を確認した享保五年から数えて四三年後の出版物だから、甲州甘草はその後東都や駿府にも根づいたのであろう。 甘草屋敷古文書には『植村左兵次様御成』という箇所がしばしば見えるが、彼は駒場に御用屋敷の一部を拝領して駒湯御薬園を開かれ(享保五年)、自ら園監も勤めているから彼が東都に甲州甘草の移植や播種を試みたことは想像に難くない。 しかし阿部が甘草屋敷に深くかかわったとの確証は乏しいから彼の持ち帰った甲州甘草が東都や駿府官園に繁殖したという源内の見解には信をおき難い。更に源内は阿部の甲州ゆきは″台命ヲ奉ジ″てのものとしているが、幕府の医官兼採薬使であった阿部と丹羽とは肌が合わず、しかも源内は阿部ー田村藍水の系列に属し、丹羽は松岡玄達や野呂元丈と共に加賀藩医兼本草学者の稲生若水の門下生であった。源内はこのような派閥の絡みで丹羽の名を挙げなかったものと思う。 さて故白井博士がこの地(甲州)を訪れたのは昭和三年秋で、次の感想文を残している。 甲州甘草之名は籐本草書に見ゆるも未だ其栽培地に関する文書を発見せざりしに昨秋偶然高野昌顕氏の家に所蔵せらるる由を聞き甘草に関する稀有の史料として其発見を喜ぴたり。今親しく三巻に装禎せられたる本文書を関して甲州甘草栽培乃沿革を祥にするを得たることを喜び之を永遠に保存せられん事を望み二百を巻頭に題す(門詔一)また名著『日本薬国史の研究』は昭和丑年の刊行だから、著者の上田三平氏が甘草屋敷を訪れたのも多分白井博士と相前後しての頃と思われる。また訪同時の当主は共に「高野呂願」と記してある。ところが昭和十五年刊の小著『薬草の科学』の中で、筆者は、数年前見に行ったが今は葡萄園化して昔の面影は更になく、一本の『甘草』すらなかったが、文献多数を見て帰ったこと、及び面接した当主は高野宅美氏であった恚記している。 当時疎開中の筆者はほぼ一目を宅美氏宅で過ごし、その時同氏から甘草の苗をなんとか入手したいとの願望を吐露された上、カンゾウということで植えたものがあるので見て欲しいともいわれ庭へ案内されたが、それは甘草ではなくユリ科の萱草であった。甘草屋敷の甘草は途絶えたのである。 今ある株や葉は戦後入手したもので、従って今この屋敷にある甘草の株を剖見し種を決定するのはよいが、だから甘草屋敷に栽培されていたのはウラル甘草だったと断定し、上目氏の名著の復刻版増補の部に載せているのは聊かかたわら痛い。
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最終更新日
2021年12月11日 05時36分53秒
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