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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年02月24日
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カテゴリ:泉昌彦氏の部屋

駿河、富士、下部金山

 

  泉昌彦氏著 『信玄の黄金遺蹟と埋蔵金』

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

駿河、富士、下部の各黄金山に稿を移すに先立って、この方面へ足繁く取材に出掛けたが、下部金山にいたっては、黒川谷・鶏冠山金山の場合と異なって、これまでに取材した域を出なかった。

 

黒川金山の場合は、どの部落でも古老はじめ青年層でも、きわめて先祖述の生活史に興味をいだいて、話題も豊富だった。

 したがって、知りうる情報はかなり収録し、仕事をさしおいてガイドも買って出てくれたが、下部方面では、二、三の古老からわずかな伝承を得たのみで、四百年というたった一つの星屑の瞬きにひとしい戦国時代は、すでに忘却のかなたに消滅していた。

 

 黒川金山の巻における丹波山村、塩山市一之瀬高橋の生活史が、すべて黄金山より出発しているのと同様に、早川町や下部町から黄金山を取除いたら、まさに色あせた凡々たる百姓の生活史しか残らない。

 金掘りというものが、当時では極めて大きな経済的役割をもっていただけでなく、進歩的な技術者集団であり、武力集団でもあったことはすでにのべた。

 

家康が駿河の目陰沢金山(静岡市梅ケ島)で定めて、諸国の金掘りたちの山法書となった五十三か条の二、三をひろっても金掘り達が武士同様の待遇を受けていた点が明らかである。分かり易くすると(後に全文を提出)

 

苗字、帯刀、乗馬もゆるされた金掘り達

 

一、

山先師ども一代は苗字帯刀は申すに及ばず、

槍、乗馬、挟箱御免

 一、

 山師 苗字帯刀

 一、

山廻衆右同断

 一、

 よって御公儀様出先の者へ屋敷料くだしおかれべく候

 

 金銀には異常な欲望をもった家康が、金掘りによせた期待もあるが、前稿の猿橋の架けかえを行なったのが芦川金山衆だった文証に照らして、さらに金掘り達に輝きが増してきた。

 

 下部町には、どこの部落にも大家と大書した旧家があって、この分家、新屋・来たり者などという匹別がハッキリしている。いわば古代から戦国時代の氏姓制度が、そのまま生きているのである。

 

黄金山では、丹波山村以上関わりに士多い歴史を持ちながら、何一つ語りたがらない。とMいうより忘却しているのだ。

 一面では、金掘りを先祖にしては、門閥にケチがつくというのつではないかと筆者は考えるのであるが、事実は百性に姓は許されなかった。

 

偽の家系図やニセの朱印状の写しなどが多いのも、学者にとっては鬼門である。家系美化のために、モノカキなるものに頼んで書かれたもので、河内領(古)文書生にもはっきり偽物と朱書したものが目につく。

 この町に根強く残された武家社会の氏姓制度の分析などは、週刊誌の絶好のネタであろう。

以上からして、取材もきわめて壁が多くて、古文書などすべて疑いの多いものとして慎重を要した。

 

  貝の花咲く化石谷

 

第一にあげる下部と富士方面の黄金山は、そのカナメとなる金ヅルがどこからどこへ分布しているかで、武田氏稼業の黄金山であったか否かの判定がつくことは、黒川金山の金ヅルの図解同様で、まず略図からみていただこう。それには約三千万年ほど太古の姿を思い浮かべる必要がある。

 日本三急流の一つにあげられる富士川は、甲州を代表する笛吹川と釜無川をあわせて、下流の早川を合して駿河湾に注いでいる。

 

  金山付近から合弁化石

 

 延々十七年もかかって、東海道と甲府を結んだ富士身延線(国鉄)が昭和三年に完成する以前の富士川は、上り下り千艘といわれる舟運に頼っていた。

 富士川の通船資料によると、富士川の通船は慶長六(一六〇一)年、

平岩親𠮷が甲府に受封されていた頃、角倉了以によって疎通した。

 

 信州の各大名が、江戸廻米をこの舟運に頼るほか、高島藩では釜無川の増水を待って数千本の材木を筏に組んで富士川から駿河の海へ流した。

 明治時代は十数万の身延山参りの客を運んだという富士川も、数千万年前という太古はフォッサ・マグナといわれる大地溝帯によって二つに分断されて、太平洋の荒波が打ちよせていたのである。

 

 日本海にそそぐ糸魚川から信州の松本、諏訪、韮埼、鰍沢、身延と、日本列島を真二つに分断していた証拠が魚介類の化石である。

 

 長野県下水内郡信州新町のクジラの化石は、数年前に見学したことかあるが、ここにも魚介の化石があった。

 また松本市に近い小県郡会田村にも、二頭のクジラの化石のあることは研究家に知られている。

 

 日本有数の山国である信州も、太古はクジラが潮を吹いていたのである。転じて富士川の支流にも、数か所にわたって見事な魚介の化石谷がある。

 いずれも標高六、七百メートルの谷間であるが、すでに甲斐国志でも現地が紹介されている。いずれも大ハンマーをかついだ石屋さんや愛石家によって、多彩な花を咲かせて生きた魚拓を残していた化石の巨岩まで無残に打砕かれて壊滅しているが、まだところによっては直径十二、三センチもある帆立貝の化石が数個そっくりして頭をのぞかせている秘境もあるが、これは筆者も記しにくい。

 

 甲斐国志では、中富町夜子沢と栗食山の記述があるが、このほかの化石谷も研究家の手で分析されて、町誌などにイタヤ貝、ニッコウ貝など二十種にあまる化石が記録されている。

 星屑のまたたきにもすぎないわずか四百年前の戦国時代の黄金山ですら、カスミのようにボヤけてしまうほど忘れっぽい人間より、無言の大地は何千万年もの歴史をはっきりと物語ってくれるから、自然との語らいは楽しくなる。この点、人間の歴史ほど当てにならないものはない。モノカキによって、善人も悪人に、悪人も善人にと、常に時の権力者に迎合する人物に祭り上げられたりコキおろされたりする。これまで武士階級は血も涙もないものだというのが国民的印象であるが、教養も高く人間味も豊かで、かえって百姓町人に脅えていたのは武士附級だったという面を見落している。

 大地に残る自然の歴史につぐのが遺跡や古名で、口碑伝承も地誌解明の重要な手がかりである。

 筆者は黄金とかけはなれた化石についてグダグダと記すつもりはな

いが、黄金山物語は、この化石とも無縁ではないからである。

 

この点、黒川金山でも石器、土器の採集は黄金山解明にとって大いに役立っていると考えている。

 

 中央線辰野駅から乗換える信州の伊那谷にも、下伊那郡長谷村から阿南町三河にかけて宝来寺町と魚介の化石がある。

 転じて富士急行沿線の桂川に沿う山にも化石がある。

 平安、鎌合のむかしから、貴族や文人の愛玩にもてあそばれ、以末こんにちに至るまで好事家によって珍重される魚介の化石が、河口湖や三ツ峠駅裏の山から出土したことは拙著にもあるが、この化石は富士急行のレールの敷石にもみられる。

 富士急行と中央線のむすばれる大月市鏡子、初狩にも明治初年まで石炭鉱山があり、付近から貝の化石がとれた。大ハマグリの化石を笹子の百姓が持っていることを国志が伝えている。

甲州街進一の難所だった笹子峠も、富士急行の狭間も、ヒタヒタと太平洋の荒波をうけていた。わかり易くかいつまむと、日本列島を分断していた太地溝帯は、やがて火山の大噴火と地殼変勣とによって、大小の湖水が出来たり理められたりしながら陸化したが、富士山はまだ太平洋の底にあった。

 ここで地質上の常識とされている富士山誕生については省くとしても、

北条氏の豆州金銀山も、

今川氏の安倍駿河金山も、

武田氏の経営した甲州の黄金山も、

すべて富士山より先に、いわば日本一はやく日本列島に誕生した地層にあったのである。

 約一万年前に古御岳山をおおって誕生した富士山は、延暦十九(八〇〇)年から宝永四(一七〇七)年までに大小の噴火を重ねて、日本の娘達はまだズングリした大根足だったが、富士山はスラリとした八頭身の美女に成長した。祭神が美女コノハナサクヤ姫で、小御岳神社の祭神が醜女イワナカ姫という伝説も、故なきことではない。

この果てしない拡がりをみせる広大な関東山塊、御坂山塊、天子山脈、南北中央アルプス、富士山と分布する武田黄金山をめぐって、筆者がたどってきた孤独の山旅は、今おもい浮かべても気の遠くなるようなヤブこぎの長路であった。

黒川金山の巻がやっと一段落したのみで、武田黄金山はまだそのとっつきに差しかかっただけである。

武田信玄から勝頓と、わずか四十二年間にわたる黄金山の現地踏査と研究をまとめるまでに、何足かの登山靴を穿きつぶすだろうが、筆者の生涯はもう先がみえている。

  






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最終更新日  2022年02月24日 07時03分14秒
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