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2022年03月09日
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カテゴリ:著名人紹介

 渋沢栄一

 

『歴史と旅』特集 徳川十五代の経営学

昭和59年12月号

柳田敏司氏著(埼玉県立博物館 館長)

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 

一八六八年(慶応四年)我国を代表してフランスのパリ万博に使節団として渡航していた徳川将軍慶喜公の名代、昭武に随行していた一人に渋沢栄一がいた。

彼は近代社会に喜々として生活する西洋人をみ、活気溢れる合本経済、社会生活を目の前にし、驚きというより、この世とは思えない、大国にいるような気分になった。

 封建社会の動乱の打ち続く江戸末期、尊王攘夷を叫んで血で血を洗う祖国日本を離れ、フランスを訪問した栄一は世界は広く、文化は多様であり、進んでいる。

井の中の蛙(かわず)、日本、日本人の後進社会とは比較にならないことを嫌というほど見せつけられ、味あわされていた。夢中で

銀行、工場、劇場、商店を見て歩き、記録にとどめた。

そうこうする使節団に、やがて徳川幕府崩壊、大政奉還、明治御一新の報が入り、帰国の途についた一行は、出国したときとは異なった政治体制下の祖国日本に帰国した。

世は明治元年となっていた。

幕臣として渡仏した栄一は、慶喜公のいる静岡に赴き、そこでわが国最初の静岡商法会所を設立、見聞してきた商法を実現しようと励んでいた。

翌二年、明治新政府に呼び出され大蔵省租税司正を命ぜられ、以後、大蔵権大丞、大蔵少輔事務取扱と昇進したが、官界人と意見が

合わず官を辞した。明治五年、三十四歳のときである。

 これ以後六十年にわたり、栄一は官尊民卑の打破、民主資本主義経済の確立、道徳経済の合一主義の主張、慈善救済を主とする社会事業、国際親善の実施を主唱し、これを実行した。

 

 栄一は天保十一年(一八四〇)生まれ、生家は古く村の開発者であり、渋沢一門の宗家「中の家」と呼ばれ、苗字帯刀を許されていた。

 農家とはいいながら特産品の藍玉を取扱う中買商をしており、経済的には恵まれていた方である。漢学を父晩香に、長じて従兄の尾高藍香に学び、剣道は神道無念流を習った。

 十四歳のとき、父に代って藍玉商に従事してから、信州、上州、秩父方面へ藍玉の買い出し、紺屋への売りこみに励んだ。時は幕末、世情不安は幕府のなせるものとして、尊攘運動に加わり、藍香の水戸学も影響し、一時は高崎城乗取り、横浜焼打ちなどを同志と策したほどである。この計画が中止になると従兄弟の渋沢喜作と京都に上り、尊王の志士たらんとした。

 

 文久四年(一八六四)二月、喜作とともに幕吏に追われるよりはと、平岡円四郎の推せんにより一橋家に仕え、ここで徳川慶喜公の家臣となった。篤太夫と改名、見込まれて財政方面を担当した。慶喜が将軍職を継ぐことになり、自分が嫌っていた幕臣となることになってしまい、一時は浪士になろうとしたが、その頃、パリ万博への使節団派遣の話があり、団員となり、給事役、御前定格として随行することになったのである。こ、のことが後の栄一の一生を左右したといってもよいのではなかろうか。

 

 栄一が官界を飛び出して、最初に手がけた仕事が第一国立銀行創立である。明治六年開業、八年頭取に就任。バンクを銀行と訳した。 この銀行を中心に基幹産業といわれた製紙、紡績、海運、鉄道、電気、機械、製鉄などをはじめあらゆる事業の指導、助言、援助を行ない、関係した事業は五百余といわれる。

財閥をつくるのを好まず、『論語と算盤』という本を出すなど、利益は私してはならないとの主義を実践した。

 実業王といわれた渋沢栄一は晩年、七十歳を機に実業界の第一線から身を引き困窮者を救済する社会事業に専念、その関係した社会事業は東京の養育院、感化院、済生会など六百余といわれる。この

ことは案外知られていない。残念なことである。

 国際親善にも意を用い、「青い目をした人形」の日米国際児童親善のため、その人形交換事業に尽した努力も、今では栄一の名を忘れられ、人形のことだけが語られているのも淋しいことである。

 栄一は飛鳥山に邸を構えて起居していたが、郷土の村祭りなどには帰村し村民と語り青年たちに希望を与え、青年団の育成にも力を尽していた。

昭和六年(一九三一)十一月十一目、九十二歳で病を得てこの世を去った。

 青渕と号し、書をよくし、漢詩を好んで作り、温故知新の揮毫を各地に残している。

 幕末から明治の変革期、薩長閥以外は政治的に活躍でぎなかったが、江戸から東京へと変った明治初期に、地の利を得た本県からは多くの文化人を輩出している。そのうち主な人物を記せば次のとお

りである。

 

●日本最初の女医といわれる荻野吟子は依願村(妻沼町)の出身である。

 ●靖国神社の境内に雄姿を天高く仰ぎみる銅像、大村益次郎像を作製し、銅像の祖といわれた大熊氏廣は、鳩ケ谷市の出身。           

 

●日本の近代解剖学を確立し、東大医学部解剖学研究室を創設し、日本医師会の基礎をつくった医学博士第一号の田口和美は、利根川河畔の町大利根町{北川辺村}の出身。

 

●近代漫画の祖といわれた北沢楽天は大宮市の出身で、現在、漫画会館に遺品が保存されている。

 

 ●上野公園、日比谷公団などを設計し、最初の林学博士となった本多静六は菖蒲町の出身。

 

 いずれも東京に出て成功した人たちである。みんな生まれ故郷を愛していたが、生地埼玉の地が知られていないのは、東京の地があまりにも近いからであろうか。或いは武蔵という同国人であったか

らか。






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最終更新日  2022年03月09日 07時46分47秒
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