歌に見る日本の美学 死について
歌に見る日本の美学 死について 『文芸春秋 デラックス』s49・5 「万葉から啄木まで 日本名歌の旅」 山中千恵子氏著(歌人)一部加筆 白州ふるさと文庫 「人麿なくなりにたれど、うたのこととどまれるかな」 と、「古今和歌集」仮名序に、紀貴之は高らかに記し、後白河院は、「梁塵秘抄撰集」の心を 「声わざの悲しきことは、わが身かくれぬる後、留まることの無きなり」 と口伝に誌された。まさしく歌は、死への存在としての、人の志のゆくところであり、とおくゆくものの帰することのない魂魄(こんぱく)の叫びを、期して待つものの心に恋いとる鎮魂の道であった。鎮魂とは、季節のめぐりに消長する植物の生とともに衰える人の命に、外からより来る力あるものの魂をつけて昂揚させる魂ふりであり、またわが身を遊離する魂をよびかえし、身内に鎮める魂しずめであった。鎮魂が死を生へ向かって脱ぐみごもりであり、復活の身生れであれば、恋歌が相聞と挽歌の双面をもつのは必然であり、いかなる歓喜の生成の歌といえども、その無縫の羽衣の下に、哀傷を懐抱(かいほう)していた。万葉集は、素朴・雄渾・晴朗といった通俗の理解に反して、諷歌倒語に満ち満ちた鬱然たる鎮魂歌集であり、その原書編集の志は、歌をもって、その生死のゆくたてを洗いあげ痛哭(つうこく)する、反・記紀ともいうべき、詩をもって書いた史書とも読めるものである。 ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今 日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子 謀反の罪によって死を賜わった大津は、詞書によれば渡洋して歌ったというが、見るべきもの-わが死を、抒情汐たるうたをもって、ひたと見据えて絶命に赴いた。西舎(せいしゃ)に臨む金烏となり二上山に葬られた大津は、壬申以前、額田王が、呪性を帯びてさらに明晰の眼で〈隠さふべしや〉と、歌い鎮めた三輪山に、死の夕日の視線をそそぎ、大津の姉・前斎宮大伯皇(さきのいつきのみやおおくのひめ)女は、 うつそみの人なるわれや明日よりは二上山を弟とわがみむ と絶唱して、やがて三輪の背後、泊瀬のみなかみから、歌をもって死を生に活かす視線を交すのである。強いられてある生死を、強いられぬ魂が、うたとなるまで見つづけ、現実を撃ちつづけることが、鎖魂のひとつの相になっていった。 もののふの八十氏何の網代本に いさよふ波の行く方知らずも 柿本人麿 淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば情もしのにいにしへ思ほゆ 同 いずれも部(ぶ)立(たて)は雑歌で、挽歌には入れられていないが、叙景とか羈(き)旅(りょ)の名で一括できぬ、相聞的挽歌ともいうべき表情をもつ歌である。千鳥と相聞しつつ、夕浪をかずいて髣髴と沈痛してゆく〈情もしのに〉という荒都挽歌の面ざしは、〈行く方知らずも〉という、人麿常用の鎮魂詞をもって、応神記の宇治川に流れた大山守命や、壬申の八十氏のもののふの魂を呼んで哭いている。序と称して意味をしりぞけたくもののふの八十氏〉こそ鎮魂の対象なのであった。 いにしえの死を、わが今のいのちに重層して魂(たま)触(ふる)るるものであり、この人麿のいのちの奥処(おくか)は、大伴旅人の謙従の無名者によって、その孤悲のしらべを深めてゆく。 家にてもたゆたふ命浪の上に浮きてしをれば奥処知らずも この天平二年(七三〇年)冬十一月の日付をもつ、海上鎮魂の歌をくちずさむたびに、この深い揺蕩(ようとう)する命の思想をはらんだ、高度に存在的な歌がどうして生れたか、不思議な思いがするが、大伴家持は、一生をかけてこの無名の思想者の〈たゆたふ命〉を思いつづけて、二十余年ののちに 「悽調の意、歌にあらずは撥ひ難きのみ」 と詞書して、雲雀の歌を撃ちあげる。 うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りし思へば 大伴家持 これは辞世ではない。けれども、そういってもいいほどの沈冥(ちんめい)と高揚をこめた、崩壊をはらんだ頽唐たる天平文明そのものの挽歌であり、なぜか、時空を隔てて、行くも帰るも死に浸透されていた源実朝の、大海の歌が、山吹の花にさえ〈あらしたつみむ〉と途方もなく虚しさをかきたてる歌が思われる。 しら露も夢もこの世もまぼろしも たとへていはばひさしかりけり 和泉式部 つれづれと空ぞ見らるる思ふひと 天降り来むものならなくに 同 奔放情熱の歌人と人のいう和泉式部ほど、無常に観じて独創的であったひとは他にない。わが生身の魂を沢の螢と見た、この歌びとの中有(ちゅうう)に充満していた遊離魂は、物思う心であり、式部にとってもの思うこころとは、ひと恋うる心だけであった。この目睫(もくしょう)の螢の恋の刹那刹那を宿してほとばしる浄瑠(じょうる)瑞光(りこう)に映せば、白露の夢のこの世も〈ひさしかりけり〉と詠嘆するほかなかった。あるいは式部にとって、ひととは歌であったのかもしれない。 いとよく口に詠まれた歌のすべてが、わが充満のあくがれ出づる魂を胎し、たまゆらに永遠な愛の挽歌を調べるとすれば、〈ひと〉こそ歌というほかはない。わがいのちの全量をこめて、魂の生死の極みに立って一息に歌ってこそ、なべての〈ひと〉は、式部の歌に恋いとられていったのである。うつしみの涙の玉を敷きに敷いて、瑠璃の地を幻出せしめることは、源信(げんしん)の往生要集の思想でもあった。 春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり 西行 この西行の心音聞えるばかりの胸さわぎは、武者の世に「死に侍りにけりな」と言い捨てて、花に風の開存のことばをめがけた人の胸さわぎである。 ああひとり 我は苦しか。種々無限清らを尽す 我が望みゆゑ 釈 迢(ちょう)空(くう)