早川石牙 箕輪町(長野県上伊那郡)誌のデジタルブック 歴史編
早川石牙 箕輪町(長野県上伊那郡)誌のデジタルブック 歴史編 一部加筆 山梨県歴史文学館 第13章 文中に蛙もすまぬ清水哉『香組草』 早川石牙とその門流早川石牙は、享保十八年(一七三三〉山梨県小原村(現在、山梨市小原〉安田氏に生まれる。石牙の出生が丑年であったから、母の姓を冒したのだということで後に母方の姓を名のり、早川氏を称した。『甲斐俳人伝』によると「初め江戸の人、井上玄高を師とし安永年中に京都に上がって医業を修めた」ことは、『石牙翁訓戒』にも記されている。賀川玄迫は字を子啓と呼び、産科の独創的な発展をなしとげた子玄の養子で子玄の産論を前進させたのである既に四十六歳となった石牙は子啓の産科を修得し、安永七年(一七七八〉帰郷開業した。医を業としながら名主なども勤め、寛政四年(六十歳〉を迎えたのであるが、この年に「太析(枡)事件」(ふとますじけん)と称する事件が突発した。石牙は、この事件の訴状の起草に当たった。彼は、訴状を認めた後、京都に上がったが、事件が深刻になるに及んで帰郷することができず信州に逃れ、木下笠原家に身を寄せ、この地で医術と俳詰で生活し、寛政九年十一月朔日同地で客死し、笠原家の墓地に葬られている。享年六十五歳である。後、文化二年に赦免され、後屋敷村清白寺に改葬された。法名は、聞神院潤光石牙居士。石牙が木下に寄寓したのは、わずか五年であった、が、在色以来の俳譜の盛んなところで、この土地の人にもなじみ、在色門人の今岡在桂も故人となり、教えを乞うものもいたであろう。清水茂夫によると、早川石牙の句の初見は、宝暦七年刊の『富圭井の水』(渡辺梅馬の追善集〉であり、その中に次の句がある。桜戸にすがる杖なき別れかな東小原百橋安永三年刊の『深山木』(蔽氷編)には春輿と題して、猫の恋こよひは雨を厭ひけり 差出草々庵石牙 の句があり、石牙は、この年から草々庵号を用いている。師梅馬の庵号を継承したものである。十年経た天明三年には、改めて落葉庵を使用している。曽孫、物外によるとこの落葉庵の号は、伝家の宝万銘「落葉」からつけられたと言われている。『甲斐俳人伝』には、「洛の蘭更一とせ甲斐に遊びて此落葉庵に入るや此里に名ある紅葉のありときくと唱ふ。石牙直ちに近くて案山子遠くては人と和す。蘭更大に喜び留まること旬余、別れに臨みて、此庵は、永く正風の道場たるべしと芭蕉の画像一幅を遺して去る。とあり、蘭更と親交があったことがわかる。また、医を業とした安泰した生活を基にして取りまく俳人たちと俳諧を楽しんでいる様子がうかがえる。鷺や薪つみたる棚へ来る見覚し万歳に逢う粟国かな香具山に三日月細しほととぎすよき茶杓つくり出しけり秋の暮 などの句をのこしており、温和な平明な句から風流人らしい石牙のおもかげがうかがえる。こうした石牙にとって寛政五年の太析事件は極めて深刻な影響を与えたと想像される。六十一歳という老齢を迎えた石牙が、異郷の木下に隠れ住んで生涯を終わらなければならなかったことは、深い悲しみであったと思われる。親あらば帰るべき夜ぞ冬の月〈墓碑)などの句には、その悲痛な故郷を思う気持ちがこめられている。そうした逆境にあってこそ彼の俳諮は、生活の潤いとしてひたすらに求められたようである。次の句などにもそうしたこと、がうかがえる。 甲斐の草庵を出てしなのの国に仮ずまひす。長月の月いとあかきに人々訪ひ来て遊ぶ。夜もいたく更にたれば山の端逃てなどつぶやくもありし。 おもしろき閣にもあえり十三夜(『山梨大学学芸学部研究報告』「早川石牙の研究」清水茂夫氏)石牙小祥思追善集『霜夜ほとけ』が出され、また文化六年の石牙十三回忌追善集『ふるしも』には、既にこの世を去った者も含めて石牙と交友関係にあった俳人たちの名が記されているが、その数は極めて多く、地方に俳譜を広めた功績は大きい。しかも、子孫の漫々・雷石・物外と受け継がれ、漫々はしばしば、墓参りのために木下の地を訪れ、この地の俳人たちと俳譜を楽しんだ。なお『井月全集』に載っている『俳譜雅俗伝』は、本来ただ『雅俗伝』といい、漫々の著作であって、甚だ親切な俳譜入門書である。井月にまで、伝わり読まれていたところをみると当地方にかなり伝播していたものと思われる。なお、石牙の寄寓した笠原家には、写真のような軸物が残されている。 隠君(横井也有の漢詩名〉にまみえ侍りて甲陽石牙百拝ここにこそ実もあれ草の花の時語るも老の身は秋の蝉也有 石牙は、寛政五年(一七九三)から同九年(一七九七〉まで、この地にいただけで、也有は、天明三年(一七八三〉に残しているので、木下では遅遁していないとされている。なお次の句も残っている。 「酔々亭(堀口酔々のこと後述)に近江八景を画る七ツかさねの大盃あり。あるじ酒をたしなめるによってけふの供応に出して座客に湖を酒となしけり専比寿講八景を手ことにとりて専比寿講しむるに銘町の席めさましけれは一石雨牙高間石鳴は、木下柏屋の主人で九郎兵衛と称した。石牙に教えをうけ、後、須田一之の門に入り、『花七草』(須田一之追善集)を編んでいる。石鳴は、福与の細井級吾におしえている。その他の門弟は、はっきりしない。天保九年四月残している。朝顔に残るや老のわらい顔『花七草』こへきて誰も若やけ花の中吹きあけし花散り込むや花の中(墓碑)(清水観世音額) 細井級吾は、俗名を所平治と称した。文化初年卯の木に生まれる。幼時より文学を好み、手良村(現、伊那市)の石湖亭、木下村の石鳴に教えを受ける。天保九年江戸へ出て俳諧を学び帰郷した。淡雪と与もに消へゆく吾身かな炎天や雲迄響け太鼓の音 中村伯先とその門流、中村伯先は、宝暦六年(一七五六)伊那部の医師養玄の子として生まれ、号は、元茂淡斎と号し、医名を昌玄、俳号を伯先と号した。彼は、はじめ美濃派の風を受けていたが、天明四年(一七八四)の加舎白雄の訪問は伊那谷俳壇史上重要なできごとで、百年近く続いた談林派の俳詰から脱し、蕉風へと変化していった。これは中央とくらべかなり遅い。伯先は、このとき、蕉風へと開眼し、伯先を通して、蕉風、が、箕輪の地へも伝わり影響している。伯先の息子、元恒の書いた『ひとつぱなし』には、一先大人の俳諧を好玉ふはしめは美濃風をなし給ひぬるか後に春秋庵白雄に導かれて遂に其風に入給ひしとそ。