考証江戸ものしり知識 江戸のはっけよい 稲垣史生氏著
考証江戸ものしり知識 江戸のはっけよい 稲垣史生氏著 稲垣史生(時代考証家) 『別冊歴史読本』「伝記シリーズ」 昭和53年 新人物往来社 一部加筆 山梨歴史文学館 相撲のはじめは戦場での組打だが、競技としては寛永元年(一六二四)明石志賀之助が四谷塩町の笹寺で行した勧進相撲を嚆矢(こうし)とする。それ以来、獅子舞・歌舞伎などと共に、よく寺の境内や空地で相撲がおこなわれていた。 が、何しろ腕自慢の闘技なので、大乱闘の喧嘩になることが多く、治安上まことによろしくない。ために慶安元年(一六四八)と寛文元年(一六六一)の二度、勧進相撲も辻相撲も禁止されている。 ところが幕府は貞享元年(一六八四)五月、江戸人口の増加を川向うの開発で解決しようと、発展策のひとつとして深川の勧進相撲を許した。すなわち木戸銭を取っていいとし、その幾分を寄進させて八幡社の修理費に当てさせたのである。といっても、以前の暴力沙汰に懲り、力士を組織化し、団体を作り、ものなれた人物を年寄にして取締りに当ることを条件にした。もちろん喜んで受諾、有力者が部屋を作って力士を収容、それらが連合して相撲団体を結成した。その監督者が年寄で、相撲興行に関するいっさいの責任を取った。ために特別トラブルも起こらず、相撲を見るため市民が川向うへ集まって発展を早めた。 この勧進相撲をさかいに、相撲を取ることで生活が成り立ち、勢い、プロの力士が出現して技を練った。柔術は陳元賛の来朝によりもたらされたが、これを取り入れて巧妙精緻の技を創造した。この技術の会得により、小兵が大兵の力士を負かすなど勝負の予測がつかず、相撲のおもしろさは数倍になった。また、体力・技術により格差ができ、正徳(一七一一~一六)ごろから大関・関脇・小粒の三役ができた。つづいて前頭・二段目・三段目・序の口も出現した。が、最高峰「横綱」の称号だけは、ずっと遅れて寛政元年(一七八五)の谷風梶之助をもって始めとする。この称は天下無双、日下閉山(地上の最強)とあがめられ、相撲道宗家、熊本の古田追風家から許されるならわしとなった。谷風につづき小野川喜三郎、方らに阿武松・稲妻などが横綱になった。 相撲道が急に盛んになり、熱狂的な人気をあつめたのは寛政三年(一七九一)の上覧相撲からのことである。 その年の六月十一日、十一代将軍家斉は、江戸城の吹上庭苑に土俵を作って有名力士に相撲を取らせた。この仕切りのとき、谷風が立ったのに、相手の小野川が嫌って、「待った」と言った。当時は、相撲は組打の延長だったから、待ったを掛けるしきたりはまだなかった。特に上覧相撲の晴の場所、行司は気合い負けとして谷風に軍配をあげてしまった。その判定に異論がないではなかったが、結局、小野川の負けと軍配どおり決定した。そしてこれが前例になり、その後もずっとよい力士は「待った」と言わなかったものである。 家斉は勇壮な相撲が気に入り、寛政のあと享和・文化・文政年間(一八○I~三〇)に数度上覧相撲をもよわした。ために力士の意気はあがったし、将軍にまねて大名の間にも相撲ファンがふえた。その度がすぎて贔屓力士を召し、扶持米を与えて「抱え力士」とすることがはやった。こうなっては諸藩の抱え力士、意地にも他藩に負けられず稽古にはげんだ。時には土俵に殺気を帯び、血の雨がふるかと思われることもあった。が、それだけ相撲の水準をあげるのに役立った。