石文(いしぶみ)に戻ってみては
石文(いしぶみ)に戻ってみては昨日の夜、家内の急な提案で映画「おくりびと」を観てきました。多分、朝から定期健診で胃カメラを飲むために麻酔を打ちましたが、その麻酔が昼には切れる予定にもかかわらず夕方になってもすっきりしない私の姿を見かねた家内が気を使って誘ってくれたものと推測しています。人間が自分の意思、気持ち、心、感情、発露・・・を伝える必要が出てきたときに考えられたか、自然派生的に出てきたのが表情や声を言葉にし、文字を持つことによって整理して記録とし伝えることを発見し、上手に伝達手段を使ってきました。新たに遠くまでも届く信号や煙を思いつき、飛脚を走らせ、近代に電話を発明しました。そして大量に伝達する手段も様々に工夫されてきたのです。現代はそれに加えて世界中を蜘蛛の巣のように張り廻られたインターネットの出現が時代を凌駕してきました。昨日の映画「おくりびと」に出てきた石文。父親の顔も覚えていない少年が幼い頃貰った小さな石ころに貴重な父親の意思を感じ、思いをめぐらす部分が出てきます。今のように自由自在に意思が伝えられる時代が素晴しいのか、不器用だけれども不自由しながらも十分ではないが大事なところだけは伝えられるのが良いのか。それぞれで意見の違うところですが、十分な伝達手段を持つ今が良いのか、不十分で伝える人の思いが十分に伝わらず受け取る側の解釈に委ねられる方法が良いのか。私は伝えようとする全てが形になってしまう今よりも幾らか歯がゆい思いをしながらも表現の方法を模索をしてみたり、相手の判断や解釈に任せる部分もあって良いような気がします。解釈の違いによって見解の相違によって大変なトラブルを呼んだり、勘違いを招いてとんでもないことになってしまうことも多いものです。また。取り決めごとや契約が曖昧で様々に解釈されるのも困ります。難しい問題ですが、人類は少なくともより良き方法、手段として作ったものですから尊重しないといけないのでしょうね。でも、言葉でもない文章でもない、ネットでもない伝達手段をより上手に出来ることがより深い人間関係を醸成する方法でもありそうです。例えば、笑顔や見つめる目に代表される表情や映画のように石の形や醸し出す表情のよって・・・・・。私もそうですが、文章や言葉によってのみ訓練されてきた私どもは相手の気持ちをもっとよりよい方法で読み取る方法があること忘れ、失ってしまいました。そのことがまた、色んな弊害を招いているようにも思えます。