「老い」の階(きざはし)
「老い」の階(きざはし)自分の「老い」を見つめるって嫌な事ですよね。私の娘などは25歳になって、「嫌だ、嫌だ、年取った」と嘆いております。仏教では四苦といって「生病老死」が人にとって誰にも、平等に与えられた苦難であるといわれます。生きる事、そうですね、楽な道ばかりではありませんよね。山あり谷あり、紆余曲折、艱難辛苦、葛藤の日々ですよね。病気もそうですね。できる事なら健康で楽しく生きてみたいものですがそうばかりもいきませんよね。病には心の病もありますし、体の病だって。或いは病とまでは行かなくてもふさぎ込むことも人生多いものです。死、長い人生を生き抜いても正面から見つめる事は中々出来ません。修行をすればどうなのか理解できませんがただ自分の死だけではなく家族や友人知人との別れのことを思うとそれはそれは大変に苦しいもののように思えます。老、年を重ねる事は年輪ともいうように積み重なっていくものですから、考えようによっては決してマイナス面ばかりではありませんよね。周りに見つめていてくれる方々も増えているわけですし、それこそ老いは一挙に来るものでもありませんので、徐々にではありますが、悔しいけど受け入れる事は可能のように思えます。でも、誰でもそうでしょうが年を重ねる事は精神的に肉体的に老化を受け入れる事、その階(きざはし)を見つめる事は悲しく、苦しく、切ないものです。老化を見つめる事は人生を悲観しそうで、今まで張り切って生きてきた人生さえも忘れてしまいそうで。そして、これからの人生までもが暗く辛いものになりそうです。ところが、避けては通れない道だとすれば、やはり受け入れる以外は方法はありませんよね。私などは、だから口先だけでも「年を重ねるのも楽しいもんだよ」などと嘯いてみたりもするものです。自分を誘導的に無理に理解させようとする意図が見え見えですが。どうせ来る「老い」ならば、少しでも受け入れながら、人生を楽しむ処方でも考えないといけませんね。一歩進んで、自分の「老い」の階(きざはし)を、眺める自分であるといいですね。難しいかな。私にとっては無理かな。でも、男女とも大厄年を迎えた頃から、そろそろそんなことを考えつつ過ごしたほうがいいのかも知れませんね。こんな事を書いていると、相当の年に思われそうですが実はそんなでもないんですよ。孫は二人いますが。