|
ローラン・プティの初期の代表作であり、コクトーのバレエ原作の代表作でもある『若者と死』(1946年初演)。
プティはこの作品を、ルドルフ・ヌレエフ、ミハイル・バリシニコフ、パトリック・デュポンといった限られたトップ・ダンサーにだけ踊る許可を与えてきた。日本にも熊川哲也という才能ある男性バレエ・ダンサーが出たことで、日本人の踊る「若者」を日本人が日本で見ることができるという幸運が生まれた。 渋谷で熊川の『若者と死』をナマで観たときの感激は忘れられない。あまりの素晴らしさにぼうっとして、井の頭線(当時は久我山に住んでいた)への帰り道を間違えてしまったほどだ。 ダンサーの踊りのテクニックが素晴らしいのはもちろんだったが、それ以上に、若者が生きている世界と死んだ後の世界――殺風景な部屋と華やかなパリの街のネオン――の視覚によるコントラスト、美しい女性の姿を借りて若者を誘惑する「性」と「死」のファンタジー、それにまるでこのバレエのためのBGMのように聞こえたバッハのパッサカリアの旋律の美しさに圧倒された。 まさしく、原案、振付、音楽、舞台美術、そしてダンサー、すべてが足し算されて掛け算のような効果をあげている奇跡的な傑作バレエだった。 このバレエにどのような人物が関わり、いかにして作られたかについては、いくつかの書籍、DVDに断片的な記録が残っている。 もっともまとまった記録になっているのは、実は日本で発売された熊川版『若者と死』 【グッドスマイル】 熊川哲也 若者と死(DVD) ◆25%OFF! に収録されたローラン・プティのインタビュー。 プティによれば、もともとの言いだしっぺは、ボリス・コクノだったという。 コクノは、1904年モスクワ生まれ。ディアギレフの秘書として渡仏した後、パリに定住し、振付師・演出家として活躍した。 ジャン・マレーの伝記には、1937年、つまりマレーがジャン・コクトーと出会ったころ、コクトーが住んでいたホテル・カスティーユにボリス・コクノがクリスチャン・ベラールととともにしばしば遊びに来ていた様子が見られる。ベラールは後のコクトー映画のほとんどの美術を担当することになる舞台美術家で、コクノとはステディな関係だった。 「ボリスは非の打ち所がなかった。まばらな髪はとてもよく分けられ、服装はきちんとし、靴はいつも新品同様に磨かれ、シャツは白く、ネクタイは品のよさと趣味の完璧さを示していた。黒く輝き、険しく皮肉な眼。剃り跡が青々と残るひげ。非常に形がよく、健康な赤い唇、青白い顔」「私は2人(=ボリス・コクノとクリスチャン・ベラール)が好きだった。オテル・ド・カスティーユの部屋は、彼らが来るとお祭騒ぎだった」(ジャン・マレー自伝より) そのボリス・コクノが、新進の振付家として注目を集め始めていた、当時22歳のプティに、 「ジャン・バビレってダンサーがいる。背は高くないけど、とても強烈な個性をもっているんだ。彼を使って作品を作ろう」 と持ちかけた。そして、 「バレエのアイディアはジャン・コクトーに聞くといい」 とプティにアドバイスした。 若き振付師プティは、コクトーのファンだった。プティはコクトーとアイディアを請うと、 「いいアイディアがあるよ。とてもシンプルなんだ。たった5行さ。若者が女を待っている。女はやって来るが、彼女は彼を嫌い、冷酷に振る舞う。そして最後に(柱に)ロープをかけて、首を吊りたいならどうぞ、と行って去ってしまう。それだけだ」 ダンサーのバビレは、コクトーから、 「君はぼくたちのニジンスキー。だから、君のためにぼくたちの『バラの精』を作ろう」と言われたという(DVD『ジャン・コクトー 真実と虚構』から)。 つまり、バレエ『若者と死』とは、ボードレール的主題をもつ、フランス版『バラの精』なのだ。 上のインタビューの写真のバビレはダンディな老紳士だが、若いころのバビレは、たくましい肉体に、彫刻的な顔立ち。コクトーは原案を提供しただけでなく、稽古にも立ち会い、バビレによれば、観客の視点に立って的確なアドバイスをしてくれたという。 「ローラン・プティが素晴らしいステップの振付をした。でも、すぐ次の動作に移ってしまった。すると、コクトーが、みんなを止めて、プティに言ったんだ。『今のは3回繰り返すべきだ。観客は1回目は動きを見る。2回目に全体を見て… 』」。 リハの様子はYou TUBEのこちらの動画の3分30秒ぐらいのところに一部ある。 ちょうど同じ時期、コクトーは映画『オルフェ』の脚本を書き始めていた。『オルフェ』でも死神は若く美しい女性。『オルフェ』の撮影は1949年だが、実は『若者と死』と映画版『オルフェ』は同じ時期の作品なのだ。 コクトーにとっての死神は、常に優美な姿をもつ女性だった。 マレーも、ピアフとコクトーの死から4年たって受けたインタビューで、コクトーの女性観について、 と言っている。 1946年のコクトーからジャン・マレーへの手紙には、『若者と死』に関する言及がある。 「バレエの方は、ボードレール的なテーマの、非常に素朴なものになるでしょう。タイトルは『若者と死』、まだ粗筋を示しただけの段階です。ダンスですが、舞台では、振付に使うのとは違う曲を演奏させるつもりです。たぶん、シュトラウスの代表的なワルツのどれかです」(『ジャン・マレーへの手紙』より) 「振付に使うのとは違う曲を演奏させるつもりです」というのはわかりにくいが、プティの証言によれば、プティは最初自分が好きなジャズの曲でこのバレエの振付をしたのだという。だが、最終的にこの曲では駄目だ、有名なクラシック音楽を使うべきだということになった。 それで、モーツアルトとか、コクトーの言うシュトラウスとか、いろいろな案が出たのだが、誰かが「バッハのパッサカリアはどうか」と言い、コクトーが賛成したことで、曲が決まった。それが初日のほんの数日前。 当然、ジャズに合わせて踊るつもりだったダンサーは、非常にとまどっていた。そこでプティが、「曲に合わせて踊るのではなく、曲はBGMだと思って踊るように」と指示を出した。「もし、最初からクラシックの音楽に合わせて振付けていたら、ああいう作品にはならなかった」とはプティの弁。 そして、舞台美術にも偶然が関与してくる。 最初舞台はごくシンプルに、若者の部屋だけの予定だった。だが、ある日、舞台美術担当のジョルジュ・ワケヴィッチが、プティに、「ちょうど撮り終わった映画のセットで、エッフェル塔があってパリの風景が広がっているのがある。それを使ったらどうかな?」と申し出た。 そして、若者が絞首台のような柱のある部屋で自殺したあと、後ろの壁が上がっていき、そこにパリの夜景が現れるという奇想天外な装置ができた。 こちらが、壁が上がったときの舞台装置をイメージした、ワケヴィッチのデザイン原画。 ボリスがプロデュースし、コクトーが物語のアイディアを出し、プティが振付け、ワケヴィッチが舞台美術を担当し、音楽を途中ジャズからクラシックに変更したバレエを、フランスのニジンスキー、ジャン・バビレが踊る――こうして、『若者と死』は、ミモドラム(身振り劇)と銘打って、1946年シャンゼリゼ劇場で初演された。 なお、衣装には、クリスチャン・ベラールも協力している。 ちなみにジャン・マレーは、『若者と死』のパリ初演は、自分の仕事の関係で見に行くことができなかった。彼がこのバレエを観たのは、ヴェネチアのフェニーチェ劇場。『ルイ・ブラス』の撮影の合い間だった。「バレエは素晴らしかった。ダンサーのジャン・バビレとナタリー・フィリバールは非常に見事だった」とマレーは自伝に書いている。 プティは、熊川版DVDのインタビューの中で、『若者と死』を踊るにふさわしいダンサーの資質について、「まず男性的でなくてはならない。そしてちょっとクレイジーなところがなくてはならない。テクニック的には超絶技巧の持ち主でありながら、自然でなくてはならない」と言っている。 ジャン・バビエ以降、『若者と死』は、限られた世界のトップ・ダンサーに踊り継がれてきたが、上のプティの言葉、そして彼の著作から推測すると、彼がもっともこの作品を踊ってほしかったダンサー、振付師プティにとっての最高の「若者」は、ヌレエフだったのではないかと思う。 <明日へ続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.05.25 13:49:23
[Art (ジャン・コクトー&ジャン・マレー)] カテゴリの最新記事
|