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何度でも見たいのが高橋大輔の(若干)意味不明「アメリ」なら、いつまでも見ていたいのが浅田真央「バラード第一番ト短調」。 http://www.nicovideo.jp/watch/sm11203143 高橋大輔+ランビーエルのコラボレーションは、若手のアーチストが、「なにか新しいことやろうぜ」と言って一緒に作品を作り上げる過程に立ち会っているような、たとえて言うなら、才能があり、前衛的で、かつ野心的でもある若手の役者集団の舞台劇を見るような期待感がある。 それとは対照的に、「バラード第一番ト短調」は、ベテランの一流振付師が、若く才能あふれるパフォーマーを選んで、心血を注いで作り上げた新作を見る喜びをもたらしてくれるもの。 この新EXには、浅田真央の最大の武器である「うつくしさ」が、動作1つ1つ、仕草1つ1つに溢れている。最初から最後まで、言葉を忘れて見つめてしまう。 浅田真央という人はダイヤモンドなのだ。ダイヤモンドはそこにあるだけで、人を魅了する。ダイヤモンドが自ら、「自分を素敵に見せたい!」などと思うだろうか? 派手な彩色をして人目を惹こうとする平凡なガラス玉と、磨かれることで多くの人を虜にする高貴で稀有な天然石との違いもわからない人に、何を言っても仕方のない話だが、本来、日本で生まれたダイヤモンドの真の輝きを広く世にアピールできる立場にある人間が、「発狂」採点が正しいという前提で、浅田真央の欠点を未熟で曇った視線であげつらい、そうすることが公平であり、あまつさえ浅田真央のためになるかのように思い込んでいるのには、見ていて怒りさえ感じる。 プルシェンコをなんとか「サゲ」ようと工作した、ローリー・ニコルの親友のジャッジが、天敵ロシアのタラソワの振付を褒めるわけがないではないか。現在、ISUで彼らが力を持っているのは明らかだが、なぜ、なんとか最強日本女子を貶めようとするこうした勢力に迎合するのか。おかしいものをおかしいと言わず、おかしいものをなんとかおかしくないことにしようとするから、あちこちで論理破綻をきたすのだ。 フィギュアスケートにはわかりやすく感情移入しやすい北米流の振付、現実とはまったく違う1つの完結した世界を現出させてみせるロシア流の振付、重厚なロシアとは違った成熟度で斬新さも追求する西ヨーロッパ流の振付というように、多様な潮流がある。好き嫌いはあるにせよ、1つのトレンドを規範として、その範疇にない表現世界は、即座に否定してまったく理解しようとしない今のフィギュアスケートの演技構成点のつけ方は、ひどくいびつで傲慢に見える。 普通の女の子の感情を演じるときは普通の女の子になる。だが、翼あるものを演じるなら翼あるものになる。孤高の存在を演じるなら孤高の魂をもつものになる。それが身体芸術の表現者に必要とされるものだ。うつくしい人はそこにいるだけでうつくしい。凡庸な女の子がなんとか自分を「素敵に」見せようと、繰り返す厚化粧や見え透いたアピールなど、真にうつくしい人は必要としない。 浅田真央が世界選手権で2度目のタイトルを獲ったとき、日本のメディアはそれがいかに大変なことかを伝えただろうか? http://www.youtube.com/watch?v=9HbZ19Z8-Eo こちらを見てもわかるとおり、海外メディアは伝えている。1990年以降20年間に、2度世界女王のタイトルを手にした女子選手はたったの4人しかいない。20年間でたったの4人なのだ。絶頂期のあまりに短い女子フィギュアスケーターにとって、複数回の世界タイトルというのがいかに困難かということだ。 英語の解説者は振付も絶賛している。日本人解説者でここまで振付を理解し、褒めてくれた人がいただろうかと思うくらいだ(苦笑)。 重厚でドラマティックな「鐘」のあとに、このセンセーショナルな舞踏。花の香りに汗の匂いが混じる熱気に満ちた夜会に浅田真央の「カプリース」が連れて行ってくれる。 そして、今年の「バラード第一番ト短調」。私たちは一人で練習しているバレリーナの稽古場をひそやかに覗いている。見てはいけないものを見ているような胸の高鳴りを覚える。そっと、いつまでも見ていたい。 ピアノの旋律は浅田真央の踊りにぴったり合っているのだが、それでいてどこかBGMの雰囲気もある。これはもともと「バレエ曲」ではないのだから。もしかしたら外は雨で、ピアノの音色は、窓ガラスをうつ雨音なのかもしれない。 バレリーナのイメージで、バレエ的なポジションを多く取り入れているが、やはりこれはフィギュアスケートなのだ。フィギュアのテクニックを存分に取り入れて、それをバレエ的な解釈の中でエレガントに展開させていく。浅田真央のすらりと天を指す脚、小首をかしげるような可憐な仕草、華麗で超絶技巧の回転動作、ふわりとひろがる腕。すべては一瞬で通りすぎ、次々と白い花が咲き、散っていくような刹那の華やかさが連鎖する。繊細なようでいて力強い、力強いようでいて繊細なバレリーナ。うつくしい、としか言いようがない。 稽古場には鏡があるかもしれない。鏡に映る自分を見つめているのかいないのか、バレリーナはなんと、「鐘」のパートを練習し始めたではないか! ここで時間がふいに戻ったような不思議な錯乱が観る者の心をとらえ、昨シーズン浅田真央を見つめた幾億の瞳が経験したであろう、さまざまな感情がその脳裏に蘇るはずだ。こちらの想像力を限りなく刺激してくれる、タラソワの巧みな演出。フィギュアのテクニックにバレエ的に解釈し、それを浅田真央という「うつくしい人」が演じることで、こちらのイマジネーションも泉のように湧いてくる。 それでいて、いやだからこそ、衣装は何色にも染まっていない純白なのだ。シンプルでオーソドックスなデザインゆえに、腰の後ろ(完全に中央ではない位置のように見え、それがまたいい)に見えるリボンがいかにも可愛らしく、効果的なアクセントになっている。 バレエの基礎を徹底的に叩き込んで、その後フィギュアスケートに専念した選手も過去にいた。たとえばエマニュエル・サンデュ選手の「バレエ的」エキシビション(動画はこちら。まさにバレエそのものの「バーレッスン」から始まる)は、あまりにもバレエで、バレエのテクニックの確かさでは恐らく今の現役選手でかなう人はいないだろう(サンデュほど本格的に踊れる人も少なかったと思うが、なぜか彼が試合で戦っているころはその表現力があまり評価されなかった。考えてみれば不思議な話だ)。だが、浅田真央の演じるバレリーナはあくまでフィギュアスケーターの演じる1つのイメージなのだ。 あくまでもフィギュアでありながら、タラソワ+浅田真央の芸術性は、フィギュアという狭い枠を楽々と超えていく。思えば「鐘」も、フィギュア関係者には「理解が難しい」と言われたが、その他の分野で活躍する芸術家の多くに深い感銘を与え、「鐘」からインスピレーションを得たさまざま分野の芸術家が、感動という名の個人的体験をあらゆる機会をとらえて文章にした。そして、それを読んだ浅田真央というフィギュアスケーターのファンが、感動をまた新たにしたのだ。 フィギュアの芸術性を一番よく理解できるのは、フィギュア経験者だけだというのは完全に間違っている。むしろ、昨今の演技構成点のデタラメぶりを見ると、権威と権力をもつ勢力から1つのトレンドだけを評価するようしむけられ、ジャッジはすっかりメクラになっていると言っていい。その集大成が、世界中を呆れさせたトリノの世界選手権での採点だ。旧採点時代には、ジャッジにここまで不信感を持ったことは一度もないMizumizuが、こう書かざるをえない現状にどれほど落胆しているか、内部の思惑と外部からの批判に右往左往しているISU幹部には想像もつかないだろう。 もちろん、「習い事」としてのフィギュアスケートなら、スケート経験者が一番正しく理解できるだろう。だがフィギュアのもつ芸術的側面は、ときにフィギュアスケートという枠の外にいる優れた感性が鋭く反応するのだ。「鐘」はそうした影響力とパワーをもつ作品だった。 経験というものがいかに大切か。北米流の若さばかりをチヤホヤして、私たちは長い間をかけて経験を積み重ねてきた一流の人間の感性を、あまりにないがしろにしている。熟成したワインだけがもつ深く複雑な味わい。その味は一朝一夕では出せないのだ。タラソワという巨星は、もう落ちようとしている。彼女の健康状態を見ても、それは否定しようがない。だが、タラソワが浅田真央を選び、浅田真央がタラソワを選んだ幸運を、日本人はいつまでも感謝すべきだ。 そして、「浅田真央はトリプルアクセルだけの選手」だとか「表現力はキム・ヨナより下」などという「妄言」を、目の肥えた日本のファンに信じ込ませようとしても、それはまったく無駄だということを、一部の偏向メディア関係者も知るべきだろう。 この空前のフィギュアスケート人気の立役者は、なんといっても浅田真央。浅田真央関連書籍の多さを見ても、ダイヤモンドがいかに人々を惹きつけてやまないかがよくわかる。 浅田真央と言えばスパイラル。多くの雑誌や書籍が、このポジションをこぞって表紙の写真に採用する。 ホントウニ、キレイデスネ~(←ヘンなガイジンオヤジみたい)
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最終更新日
2010.07.08 02:34:16
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