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自らの信念――あるいは価値観と言ってもいい――を提示し、それにそった流れを作る。バンクーバー後に、ロシアのスケート連盟とスケート界の大物がやったのはそれなのだ。「自らのもつフィギュアスケートのビジョン」を示し、競技をそちらに誘導するためには、ときにはシステムやジャッジの批判も恐れない。 2012年のニースでの世界選手権のあと、タラソワは1位チャン、2位高橋、3位羽生、4位ジュベールという男子シングルの結果とジャッジングについて、彼女らしい率直な言葉で批判を展開した。それを要約すれば以下のようになる。 チャン選手については、カナダ陣営が発揮する強大すぎる影響力によって、チャンと同様の天賦の才をもつ選手が彼と対等に戦うチャンスを奪われている。羽生選手とジュベール選手の順位は入れ替わってもよかった。これは日本スケート連盟の優位性によるもの。ジュベール選手側に立つ審判がいなかった。 このときタラソワは高橋選手を絶賛し、ジュベール選手の肩をもった。どちらもタラソワと縁のある選手だ。タラソワに限らず、欧米の振付師やコーチは必ず、自分の「クライアント」の選手の長所を最大限、自分なりの流麗な表現で宣伝してくれる。それは別に不公正な態度ではない。自分が優れていると「客観的に」判断しているからこそ、彼らとの仕事を引き受けるのだし、彼らのもつ良い部分を世の中にアピールするのは当然のことだ。 翻って日本人は? たとえば宮本賢二の高橋大輔評などは、こうした海外の一流人に匹敵する情熱と華麗な修辞がある。だが、ベテランのコーチから、自分の指導する選手に関する積極的なアピールが言葉で語られることはほとんどない。むしろ、直すべき点や改善しなければいけない部分を前面に出す場合のほうが多い。あるいは、「海外の先生」や「ジャッジ」の評価を語ることはあっても、自分が自分の生徒の素晴らしさを自信をもって話す人がいないのだ。あるいはそれは、ポリシーのようなものかもしれない。日本人が伝統的に良しとしてきた謙虚さと道を究める精神。他人からの評価はその先におのずとついてくるという信念。 だが、残念ながら世の中というものは、一流人ほどの審美眼をもたないものなのだ。どこがどう優れているのが、説明してあげなければわからない。黙っていれば批判はされないが、主張しなければ、顧みられることもない。これが善し悪しは別にして、世界のスタンダードだと言えるだろう。 コーサー・コーチがどれほど巧みにキム・ヨナのスケート技術を宣伝したか、そしてどれほど説得力をもって、羽生結弦のプログラムの周到さを話したか想起してほしい。選手のもつ強みを最大限生かすコーチとしての努力と並行して、オーサーは見事なスポークスマンぶりも発揮している。勢いがあったころのモロゾフもそうだった。日本人コーチの求道精神は敬服すべきものがあるが、欧米の一流コーチのようにクレバーな「言葉」で、世の中の見方を誘導していく努力も、これからは必要だろう。 タラソワが「常勝チャン」の採点について、カナダのスケート連盟の政治的なプレゼンスに言及するのも、当然こうしたスケート界における、一種の「世論」誘導の一環だと言える。タラソワはチャンのスケート技術やジャンプの進化をきちんと評価している。別にチャンに偏見があって採点を非難しているのではない。 タラソワは羽生結弦に対しても、早くから「彼はまさに天才。どうやったらあれほどの才能を与えられるのか、彼の母親に聞いてみたいほど」と彼女独特の表現で称賛していた。タラソワがソチ五輪の男子シングル終了後に、「率直に言って誰も金メダルに値しない。あれほど転ぶチャンピオンは見たことがない」と言ったからといって、さっそく叩いた人がいるが、それが彼女のゆるぎない価値観なのだ。羽生選手自身、自分の中のオリンピックは「ヤグティン対プルシェンコ」だと言っているように、難度の高いジャンプを入れながら、グラリともしないクリーンなプログラムを、五輪という舞台で披露してこそ、名実ともに五輪チャンピオンにふさわしい。ヤグティンを指導したタラソワの抱く五輪王者の姿は同時に、羽生選手の価値観でもあるだろう。羽生選手の五輪後の発言がそれを裏付けている。 例えばこの4年間を羽生選手が大きなケガなく過ごすことができ(それは彼のスケジュールやジャンプの難度を見ると、確率としてはあまりに低いと懸念せざるを得ない)、これまでの男子ジャンプの常識を覆すような高難度プログラムをクリーンに滑りきり、そのときにタラソワがまだ発言できる立場にいれば、彼女は彼女にしかできない修辞で羽生結弦を絶賛するだろう。氷上の皇帝、20世紀で最も傑出したスケーターと呼ぶにふさわしいプルシェンコというレジェンドを、跳べるジャンプの難度だけでなく名実ともに上回る選手が出るとしたら、今一番それに近い位置にいるのは、間違いなく羽生結弦だ。 率直に言えば、Mizumizuはスケーターとしては羽生結弦より高橋大輔の才能を評価しているし、高橋大輔の舞踏表現により深く魅了される。プルシェンコとヤグディンが競っていた時代は、明確にヤグディン派だった。だが、フィギュアスケートがスポーツである以上、競技者としての成績は、個人的な評価や好みとは別に出てくる。かつて、ミーシンは、「プルシェンコとヤグディンはどちらもダイヤモンド。だが、プルシェンコのほうが大きなダイヤモンドだろう」と言ったが、今回のソチの団体戦金メダルで、プルシェンコはまたもそれを証明した。 そしてそのプルシェンコの五輪出場のために、ミーシンもあらゆる手を尽くした。アマチュア資格復活までの青写真を描いたのも彼だし、プルシェンコをバッシングする国内メディアに対して、「彼は誰も行かない道を行こうとしている。悪意ではなく拍手をもって見送ってほしい」と彼らしい詩的な言葉でクギを刺したこともある。 こんなふうに印象的な修辞で、自ら選手の盾になろうとする発言を日本人コーチがすることは、ほとんどない。ジャッジの採点を肯定的に説明したり擁護したりする発言なら多い気がするが。コーチが肯定すべきは、ジャッジの採点行動だろうか? もちろん尊重する必要はあるだろう。だが、自分の価値観もそれ以上に、尊重すべきではないだろうか? さまざまな国の人間が集まる場では、さまざまな価値観がぶつかり合って当然なのだ。 日本のスケート連盟の得意技はといえば、右顧左眄だ。ジャンプの回転不足がアホみたいな減点になっても批判するわけでもない(批判したのは日本人選手のついたロシア人コーチだけ)。ところがルールが変わって減点が緩和されたら、今度は「(回転不足が転倒よりも大きな減点になるのは)以前から変だとは思っていた」などと言って、自分たちの手柄とばかりに説明してみせる。日本のスケート競技関係者がロシア人のように、自分たちのもつ「フィギュアスケートのビジョン」を内外に明確に提示したことがあっただろうか? ビジョンをもつというのは、女子ショートに(事実上、日本の浅田選手しか試合に入れることのできない)トリプルアクセルを入れるよう働きかけることではない。そんな露骨なルール改正を提案しては、公平性に疑念を抱かれるだけだ。そうではなくて、あくまでフィギュア全体にとって何が必要なのか、フィギュアスケート競技とはどうあるべきで、どういう方向に行くべきなのかについて理論武装をしたうえで、自国の選手が不利益を被らない、そしてできれば強みを生かすことのできるルールを考えることが肝要なのだ。それは何も採点の公正性を希求することと矛盾はしない。 ロシアは自らのビジョンに適う方向に採点傾向誘導し、現行ルールに基づいて高得点を出せるよう選手強化をした。男子シングルでは必ずしもうまく行かなかったが、女子では見事に若い選手の才能が開花した。ロシアから吹いた風に男子シングルで乗ったのは、日本の「ティーン・センセーション」羽生結弦だったが、この喜ばしい結果には、不世出とも言っていい羽生選手のジャンプの才能に加え、自分たちの「敵対勢力」である北米カナダに男子金メダルをやりたくないというロシアの隠れた意思や、羽生選手に金メダルが行けばカナダの英雄オーサーの顔も立ち、今やフィギュア大国となったISUの金ヅル日本の悲願もかなえてあげられるという、各国の政治的な思惑もあったかもしれない。ジョニー・ウィアーの弁を借りるまでもなく、フィギュアは特にオリンピックでは、常に非常に政治的なスポーツなのだ。 高橋選手のアクシデントは、ファンだけでなくフィギュア界全体にとっても、あまりに不幸な出来事ことだったが、あれで日本が金メダル候補を1人に絞れたという事情もあるかもしれない。実際、高橋選手不在のグランプリファイナルで、チャンから羽生へ流れが目に見えて変わり、それが転倒王者・・・じゃなかった、「絶対王者」のチャン選手の焦りと不安を招いた。 <続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.08.10 13:37:48
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