「競争することよりも助け合うことを教えてあげて下さい」
子どもを比較し、追いたてる人がいます。そのような人は、「ありのままの子ども」を受け入れることが出来ません。そしてそのような価値観の大人に育てられたり教育されている子ども達も、「ありのままの自分」を否定し、常に他者と自分自身を比較しながら生きることになります。そのように学習してしまうのです。そして、大人になり、親になり、今度は自分の子どもを他の子や、標準値や、理想と比較し、追い立てます。自分に対しても同じことをしています。そのような人は、常に比較し、追いたてていないと不安なんです。幼い頃に親から受け継いだ価値観は、本人が変えたいと思っても他の人の手助けがないと変えられないのです。でもそういう人に限って、他の人に助けを求めません。成長を続けていないと維持できない経済システム、人口が増え続けていないと維持できない政治システムはそのような人たちによって作られ、維持されて来ました。また、そのような社会がそのような価値観の子どもや大人を育ててきました。そのような社会を維持するためには、「立ち止まること、自分と向き合うことに不安を感じる人」が必要だからです。経済活動を活性化させるためには、常に比較し、競争しようとする人たちが必要なんです。ですから、そのような社会の価値観を善とする人たちは、子どもを比較し、追いたてることも善であって、非難されるようなことではないと思い込んでいます。だから原発は善であり、原発反対は悪なのです。そしてその結果、原発が、また社会全体が困った状態にになってしまっても、「原因不明」もしくは「不可抗力」で済まそうとするのです。それが現代日本の政治や経済の中枢にいる人たちの価値観なんです。ですから、この問題は個人の問題であると同時に、社会全体の問題でもあるのです。そのことに気付かないと個人の問題も、子育てや教育の問題も解決できません。どんな価値観に支配された社会に生まれてくる子ども達でも、生まれたばかりの時にはまだ「社会の価値観」に染まっていません。どんな国、どんな社会に生まれてくる子ども達でも、「現代人の感覚」ではなく「古代人の感覚」を持った状態で生まれてくるのです。何しろ古代人としての歴史は何十万年ですが、人類が文明を持ち始めた歴史は数千年程度なんですから。現代につながる「科学に支えられた便利な生活」なんか、たった100年、200年程度の歴史しかありません。そして、「古代の人たちと同じ感覚」を持ったまま生まれてくる子どもたちにはその「現代社会の感覚や考え方」は理解できません。その「古代人の感覚」で大切なのは、「助け合うこと」や「分かち合うこと」であって「比較し、競争すること」ではありませんでした。厳しい自然の中で生き延びるためには「助け合う仲間」が絶対的に必要だからです。そして、これは今でも自然と共に生きている人たちにとって共通する価値観です。実際、競争に明け暮れている日本人でも、大きな災害があると助け合いますよね。助け合わないことには自分も生き延びることが出来ないからです。古代の人が、仲間と助け合わずに競争に明け暮れていたら人類はとっくの昔に滅亡していたはずです。その古代人の感覚を持ったまま生まれてくる幼い子どもたちは、助け合ったり、分かち合っている時には天使のような笑顔を見せてくれます。でも、比較され、追いたてられている時には悲しそうな顔をします。でも大人達はそんな子ども達の「悲しそうな顔」を無視します。気付いてすらいないのかも知れません。でなければ子ども達を競争に追い立てることが出来ないはずだからです。でも、大人達がそんな子ども達の「悲しそうな顔」「苦しそうな顔」に気付かないと、やがて人類はどん詰まりに追い詰められてしまうでしょうね。そして全体が滅びれば、必然的に個も滅びます。