「平和は守るものではなく日々創り続けるものなんです」(話し合う能力を育てる)
ケンカをしないからといって仲がいいわけではありません。ケンカをするからといって仲が悪いわけでもありません。戦争がないからといって平和なわけではありません。「悪いこと」をしないからといって「いい人」というわけではありません。人殺しや犯罪がないからといって「平和な社会」だというわけではありません。人に頼らないから自立しているというわけではありません。悩みや苦しみがないからといって幸せだということではありません。お金がないからといって貧しいというわけではありません。社会的に成功しているから幸せだということではありません。「毎日いっぱいご飯を食べることが出来ているから豊かなんだ」ということでもありません。「外から見た姿」と「中から見た姿」は同じではないからです。それはつまり、「いっぱい食べても満たされない人よりも、少しの量でも満たされる人の方が、本人的には豊かなのではないでしょうか」ということです。「お金はいっぱいあっても心が満たされない人よりも、お金はなくても日々の小さなことにも幸せを感じ、周囲の人に感謝して生きることが出来ている人の方が豊かなのではないでしょうか」ということです。「ケンカをしているから仲が悪いんだ」というのは、外から見た評価です。でも、ケンカをしながらでもいつも一緒にいたがる子が本当に仲が悪いのでしょうか?「戦争がないから平和なんだ」というのも、外から見た評価です。確かに、戦争が起きれば平和は失われます。でも、戦争がなくても「人と人が助け合わない社会」「生きることに安心を感じることが出来ない社会」は平和ではないような気がするのです。今の日本は戦争をしていません。だいぶ勢いは落ちてきましたが、それでも世界の中では豊かな方です。そういう意味では平和です。そして、この平和を守ろうとしている人たちもいっぱいいます。でもその一方で、「刑務所に入りたいから」と犯罪を犯す人が増えてきました。「誰でもよかった」と人を襲う事件もよく聞きます。「簡単にお金が手に入るから」と、簡単な気持ちで闇バイトに手を出す若者も増えてきました。ちょっとした落ち度に付け込んで相手をののしるカスハラも増えてきました。子どもが嫌いな人、子どもを許容できない人も増えてきました。血肉が飛び散るようなホラー映画が大好きな人もいっぱいいます。子どもと一緒に見ている人もいっぱいいます。(子どもからの情報です)表面的には平和でも、その平和を「大切なこと」として守ろうとする意識はそれほど高くないのです。むしろ退屈を感じ刺激を求めている人がいっぱいいます。ネットの投稿を見ていても、「大きな災害」を待ち望んでいる人もいっぱいいるみたいです。戦争にあこがれる若者すらいます。刺激が欲しいのでしょう。日本の平和は自分たちの力で創りあげたものではありません。戦争に負けて、アメリカや世界の圧力によって受け身的に与えられたものです。連合軍は連合軍の立場で戦争責任を追及しましたが、日本人自身が「自分の事として」反省することはしませんでした。日本人が得意な「過ぎてしまったことは忘れよう」という能力が発揮されたのでしょう。そのため、日本人は「戦争がない=平和」という短絡的な発想をするばかりで、平和の作り方も、平和の維持の仕方も知りません。学校では「知識としての平和」については教えていても、実際に自分たちが生きている社会での平和の作り方や維持の仕方を教えてはいません。もし子どもたちに、「平和の作り方や維持の仕方」を伝えたいのなら、今のような「一方的に先生が言葉で教えるだけの授業」や「先生が子どもを先生の価値観だけで評価するシステム」をやめるべきなんです。そして、子ども同士が話し合い、子どもと先生が話し合うような形で、子どもたちの学びを支える必要があるのです。平和は「話し合い」の上にしか成り立たないのですから、「話し合いの技術」を育てることが平和を育てることにもつながるのです。第二次世界大戦もそれがなかったから始まってしまったのです。平和は、ただ守るのではなく、常に創り続けていないと維持できないのです。守っているだけでは中身がスカスカになってしまうのです。子どもと子どもが話し合わない、大人と子どもが話し合わない、先生が子どもや親と話し合わない。政治家が国民と話し合わない社会は、戦争はなくても平和な社会ではないのです。