「不便を楽しむ」(芸術活動と人間)
人類は、不便、危険であることを嫌い、どのようにしたら不便や危険を解消出来るのかということを色々と考え、研究してきました。その結果、世の中はどんどん便利で安全になりました。今では、お料理の作り方など知らなくても、包丁など使えなくても、美味しいお料理を食べることが出来ます。歩くのが苦手でも、乗り物を使えば歩くよりずっと早く移動することが出来ます。昔は鉛筆はナイフで削りましたが、今では電動鉛筆削機の穴に差し込むだけでアッという間にきれいに削れます。自分で考えなくても、本やインターネットなどで調べればすぐに答えが得られます。また、外灯で夜は明るくなり、道は平になり、突然襲ってくる獣はいなくなりました。(今では人間が一番危険です)“食べ物が腐っているかどうか”、“これは食べられるかどうか”などということを自分で判断しなくても済むようになりました。子どもが木登りしていて木から落ちてケガをしたら、昔は“木から落ちか子が下手だった”で済まされましたが、今ではその木の管理者が責任を求められ、下手をすると木が切られてしまいます。道の段差にけつまずいて転がれば、昔は“気を付けなさい”で終わりでしたが、今では道の管理者が文句を言われます。便利が増え、危険が少なくなればそれにともなって、人間の機能は低下します。人間の機能はそのように出来ているからです。お年を召して機能が低下した人や、障害を抱えている人にとってはそれは意味のある大切なことだとは思いますが、今その機能を育てなければならない年齢の子どもたちにとってはそれはあきらかに子どもの成長を妨げる邪魔者なんです。それでも、昔のように大人の社会と子どもの社会が分離していた時代には大人の社会が便利になっても、子どもたちは外で走り回っていました。でも、今、子どもたちは大人と同じ空間で生活しています。同じ物を使い、同じ環境で生活しているのです。ですから、当然子どもたちもその“便利”と“安全”を享受しています。但し、“自分の成長”と引き替えにです。昔の子どもは平気で何時間も歩き、遊び回りました。でも、今の子どもはそんなには歩きません。移動する時には自転車を使います。何時間も子どもを歩かせるイベントもあり、何時間も歩き通す子どもも確かにいますが、でも、イベントとして歩くのと生活の中で歩くのでは心とからだに対する影響の与え方が根本的に異なります。現代人は不便や苦労を楽しみません。昔は、“若い時の苦労は買ってでもしろ”と言いましたが、今の若者にはその意味は理解出来ないでしょう。苦労したら、苦労した分のお金をもらわないことには割が合わないと思っています。でも、こんなに便利になった世の中にもまだ何百年も前と同じように“不便を楽しむ”活動もあるのです。それが、手仕事や芸術の分野なんです。それらの分野ではむしろ“便利・簡単”は嫌われます。不便だからこそ楽しいのです。そして、自分の心とからだと知性と魂の全てを注ぎ込む必要があります。つまり、丸ごとの自分を投入しないことには芸術的な活動は出来ないのです。でも、簡単便利を求める現代人は芸術的な活動を楽しむことも放棄し始めています。活動自体を楽しむことよりも、上手を求めるようになったからです。AIを使えば簡単にプロが描いているような絵を作ることが出来ます。そのうち絵描きは絵筆を持つのではなく、キーボードを叩くようになるでしょう。でも、人間が芸術的な活動を楽しむことが出来なくなったら、その時点で人間から「人間らしさ」は失われてしまうのです。古代の遺跡の中に芸術的な活動の痕跡を見つけると、そこに人間らしさを認めることができます。人間以外の生き物でも必要に応じて道具を作ったりはしますが、生活に必要がない芸術的な活動を楽しむのは人間だけなんです。それだけ「人間らしさ」と「芸術的な活動」の間には深いつながりがあるのです。