「子どもの活動は全て芸術です」
昨日は、古代の遺跡の中に芸術的な活動の痕跡を見つけると、そこに人間らしさを認めることができます。人間以外の生き物でも必要に応じて道具を作ったりはしますが、生活に必要がない芸術的な活動を楽しむのは人間だけなんです。それだけ「人間らしさ」と「芸術的な活動」の間には深いつながりがあるのです。と書きましたが、今日はこの「芸術」について考えてみます。国語辞典には、「芸術」(gooのネット辞書から)(1)特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、およびその作品。建築・彫刻などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・舞踊・映画などの総合芸術に分けられる。(2)芸・技芸。わざ。「凡(およそ)―は、…切差琢磨の功を積まざれば、その極に至りがたし/読本・弓張月(前)」英和辞典では「Art」芸術, 美術; 技術, 技能; ((集合的)) 芸術作品; (pl.) 学芸 (liberal arts), 人文科学; 人工; 技巧, 熟練; (時にpl.) 術策; 〔古〕 学問.と書いてありました。この両者を比べてみると、日本人が感覚として持っている「芸術」と、英語の「Art」は同じではないことに気付きます。日本人が「芸術」という言葉を使うと、なにか「高尚」な感じがします。それは「芸術」という概念が、明治の頃に欧米の美術品や、美しさを見せる芸術的な活動と共に入ってきたからなのでしょう。でも、英語のArtの方はもっと生活に即したもののようです。英語では、料理人や大工まで熟練するとArtになるのですから。どうも日本人は“美”にこだわる民族のようです。そして、私の印象では一般的に“美”という言葉は、“俗”という言葉とは対立したイメージを持っているようです。日本人は、“美”に“聖”なるものの匂いを感じるのかも知れません。武士道、茶道といった“道”のつくものも一つの“美学”によって支えられています。そこで語られる美学は“俗”と対立した論理、概念で語られています。そのような日本人にとって芸術は特別なものなんです。そして、実際多くの人が芸術は美術館や劇場にしかないと思いこんでいます。でも、欧米におけるアートは必ずしも“美”を目的としたものではありません。日常生活における自己表現も、歩き方も、話し方も“技術”と言う視点で見れば全てアートなのです。つまり、日本人が考えるような“芸術”は、欧米人から見たら“美を目的としたアート”と表現するしかない、狭い領域のことなのです。(つまり、欧米には美を目的としないアートもあるということです。)この違いは受動的に生きてきた日本人と、能動的に生きようとしてきた欧米人の感覚の違いかも知れません。日本人は芸術を“感覚に響くもの”として捉え、欧米人は“行動によって表現するもの”として捉えているのだろうと思います。もしかしたら欧米人は、“行動すること”、“表現すること”の中にこそ、“美”を感じているのかも知れません。そして、私が“芸術”という言葉を使う時には実はこの英語の“Art”に近い意味で使っています。多分、シュタイナー教育の中で“芸術”と訳されている言葉も、本来の意味はこの“Art”に近いものだろうと思います。つまり、私から見たらけん玉も、コマ回しも、竹馬も、お絵描きも、ダンスもみんな“芸術”(アート)なんです。普通は、子どもの歌や絵は“芸術”としては扱われていませんが、私から見たらそれらも立派な“芸術”です。私は、子どもの生命活動から生まれたもの、また子どもの生命活動と共鳴するものを“芸術”と言う言葉で表しています。そして、それは大人の芸術とは異なります。なぜなら、大人の芸術は自由意志の現れですが、子どもの芸術は生命活動の現れだからです。でも、その子どもの芸術の中には大人の芸術の全てが含まれています。絵画も、歌も、踊りも、文学も、演劇も、技術も、学問も、「Art」のところに書いてあった全ての要素が、子どもの芸術の中には入っているのです。大人の芸術と子どもの芸術は異なりますが、大人の芸術は子どもの芸術の延長にしか存在できないのです。大人は幼い時に直感で得たものを意識を使って再現しているだけなのです。それが大人の芸術なんです。人々がまだ自然の中で素朴な生活をしていた頃には、大人の芸術も子どもの芸術と似たようなものでした。でも、、文明や文化の進歩とともに、大人の概念世界が複雑になり、それにともなって大人の芸術が芸術本来の生命活動からどんどん離れ、知的で難しくなってきてしまったのです。だから、大人たちは子どもの芸術を幼稚なものとしてしか理解できなくなってしまっているのです。でも、私は原点に立ち返って、子どものそのような活動をあえて“芸術”と呼んでいます。大人たちは意識によって芸術を作りますが、子どもたちは生命活動によって芸術として生きているのです。ですから、子どもたちを芸術として関わろうとする時、子どもたちは生き生きとしてきます。子どもたちが幼い時に、意識的にそのような子どもの芸術的な活動を支援することは、子どもの生命活動を支えるだけでなく、子どもが大人になった時の可能性を大きく広げることにもつながるのです。子どもが大人になった時に花を開かせるための種は、すべてこの時期の芸術的な活動の中で生まれるのですから。