ロケットに載せるものは…
半藤一利の『昭和史 〈戦後篇〉 』を読んだのは2年ほど前になる。現在は網野善彦の『「日本」とは何か』をかみ直しながら読んでいる。実は、これは僕も参加している読書グループと友人仲間の今回のテーマなのだ。『昭和史』は、昭和天皇が、いかに戦争終結に大きな役割を果たしたかに書かれているが、これはどうなんだろう。昭和という時代はどことなく鬱陶しい重い空気を感ずるが、著者はその昭和史の教訓としてつぎの5つを挙げている。 第1に、「国民的熱狂をつくってはいけない」。 第2に、「危機において、日本人は抽象的な観念論を好み、具体的な方法論に目をつぶる」。 第3に、「官僚的秀才による小集団エリート主義の弊害」。 第4に、「国際社会のなかの日本の位置を客観的に把握しない」。 第5に、「事が起こったとき、すぐに成果を求める対症療法的な発想を取る」。ついても、歴史の読み方は難しいものだ。以前に、映画「硫黄島からの手紙」で、栗林忠道中将の名将ぶりが異常に注目されていた。個人としても軍人としても栗林忠道は優れた人であったろうけれど、硫黄島での戦いが日本にとって良い規範とばかりするのはどうかと思う。日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した。それだけの死者をだしても粘った結果、敗戦への決断が遅れ、広島・長崎、そして東京をはじめ多くの都市で非戦闘員の膨大な命が失われることになった。これは硫黄島での戦いがねばりづよく見事であったという喧伝が、あるいは当時の軍部で美化され、本土での徹底抗戦の口実につかわれた結果ともとれるのではないだろうか。歴史は、どのような角度から光をあててみるかによって、その評価は変わってくるものと思う。いたずらに、美化も卑下も過ぎたるは及ばずがごとし、と…。北朝鮮の人工衛星(?)がちゃんと軌道に乗ったという。電卓もロクにないい国がロケットの軌道計算をきちんとできるとはたいしたものだ。願わくば、人工衛星のかわりに核弾頭など載せようなどとバカなことだけは考えないで欲しい。もう、戦争で外交をやろうなどという時代ではないんだよ、とちゃんと教えてやって欲しいものだ。蝶クリック!