むのたけじ
むのたけじさんは1915年生まれというから、95歳にもなるのか。むのたけじの詞集『たいまつ』(三省堂新書)にこんな言葉があった。●幸福は抽象的であり、不幸は具体的である。抽象をあげつらうより、生活の具体敵を射撃せよ。●自分はボロを着ても、タクアンのしっぽでめしを食っても、子どもは上の学校にやろう、参考書も文房具も十分に買って与えよう、という気持ちは美しい。けれども人間の幸福とか不幸とかいわれるものは、しょせん社会とのつながりできまるものではありませんか。●本気でわが子をしあわせにしたいなら、この子らに私たち親はどんな社会をひきつごうとしているかを、一番熱心に考えて努力しないといけないのではありませんか。●おそろしいのは思想ではなくて、思想をおそれる思想である。おそろしいのは革命ではなくて、革命をおそれる思想である。革命は、社会発展の自然かつ必然の関門である。それをおそれて前へ進まないことによって、無益の犠牲がつもりかさなる。●戦場で死んだ兵士は最後に「かあさん!」とよんだ。しかし母親のだれも、むすこのそのこえを聞いていない。 そして『日本の教師にうったえる』(明治図書)のなかにある言葉。―いつも生徒に「さあ、胸をしゃんと張って」と気合いをかけるあなたが、どうして自分では胸を張って歩かないのか。どうしていつもうつむいて歩くようになったのか。このころの教室には子どもたちの笑いごえがない、とあなたは言うが、それはあなた自身が歌を忘れたカナリヤになってしまったからではないのか。このごろの子どもは廊下を通るときに忍者のように歩く、とおっしゃるが、それはあなたができるだけ世間の目につかないようにと、あなた自身が忍者になっていることの反映ではないのか。元気のない者は元気な者をにくむ。あなたがた教師は子どもたちが元気であることにヤキモチを焼いているものだから「廊下を走るべからず」「ボール投げをすぺからず」と手かせ、足かせをはめているのではないのか。―「教育の活動は、創造の活動でしょう?熱がなくて何を創造できるのか。自分が興奮しないで他人を興奮させることができるという打算は、すべて売春婦の打算に通じている。自分の姿勢を見てみなさいよ。うつむいて歩く姿はサルへの接近ではありませんか。人間の起源は四つんばいとの決別、二本足での自立による出発だと授業しているのではないのですか。―教師は何をもって教育をするか。自分のカラダでもって教育する。美醜、哀歓を宿して、だれもが神と魔との振幅の中で呼吸しているナマ身のカラダをさらけ出して、それで教育をいとなむほかないではありませんか、教師のやれることは、しょせん、それ以上でもそれ以下でもありえないではないか。へっぴり腰で仮装した教師ほど、教育を混濁させるものはない。(中略)いやはやこのジイサン、手厳しくて痛快だ。蝶クリックを!