輪廻とカーストと宮沢賢治
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである・・・。 ↑はお釈迦さんの言葉です。魑魅魍魎や怪力乱神が渦巻くカースト制度が延々と続くインド社会で科学的で革命的な言葉だったと思います。輪廻を信じる国では、生命保険があんまり売れないそうです。命に対しても淡白だったりあっさりしてます。身分の高いものは前世で徳を積んだから身分の賤しいものは前世で罪を犯したから障害者は前世で・・・・・なんて考えは結構世界中にあって未だにその残滓は残るようです。だからこそ、オーラの泉・・・あの手の番組が流行り売れるのでしょう。生きる上でのしんどさや不安や怖れを慰撫するために・・・・噂や流言や様々な陰謀論なんかもそうでしょうがいかにもそれらしい話に我々は騙されやすいし騙されたいと思う人もいます。日本では一般的に、インド独特の身分制度であるカースト制度とは、バラモン(僧侶)、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(隷属民)という四階層で構成される身分制度であると思われています。この区分はすでに紀元前数世紀頃、古代インドのバラモン教(ヒンドゥー教の母体となった民族宗教)の聖典『リグ・ヴェーダ』の中に見ることができます。この区分はインドでは「ヴァルナ」と呼ばれ、本来は肌の色に由来するものでした。当時インドに侵攻したアーリア人の肌が、土着のドラヴィダ民族に比べ白かったため、自らの肌色を頂点として作り上げた階級制度です。日本語では四姓制度としても知られるヴァルナですが、実際にはこれらの制度に入ることのできないアウトカースト(不可触民・アチュート・ダリット)も存在するため、インドの社会は大きく五つに区分されるということもできます。 このヴァルナに加え、職業別の階級制度(身分差別)であるジャーティという区分も存在します。サブ・カーストとも呼ばれるジャーティの種類は、一説には2,000とも3,000とも言われます。インド社会を現実的に構成するのは、数え切れないほど細分化された世襲制度ジャーティです。各ジャーティは伝統的な職能集団で、地域社会内ではジャーティ間での分業体制が成り立っています。これに加え、ジャーティの特徴として内婚制(同ジャーティ内での結婚)が挙げられます。この内婚制度は現在でも厳格に守られており、異カースト(異宗教)間の結婚は少数です。このように、インドのカースト制度とは、「ヴァルナ・ジャーティ」制度ということができます。 この身分制度の根幹を成す考え方として、ヒンドゥー教独特の浄・不浄の概念があります。もっとも身分が高い階級は最高に清浄であり、身分が下がるに従ってケガレも増すという考えです。そして浄・不浄の概念は、これもヒンドゥー教の根幹を成す業・輪廻の概念と抜きがたく結びついています。つまり、現世の身分を決定するのは前世の行いであり、現在の自分に与えられた身分(職業)に没頭することで、来世のよりよい身分が約束されるというわけです。この考え方の枠組みによれば、下の階級が上層階級へ尽くすことこそが、自らを救済する道であるということになります。このことが、いわゆるカースト制度がなかなか消えない理由でしょう。http://www.indochannel.jp/society/class/01.htmlこんなインドの歴史を見てると世襲制の議員を排斥せよ。別に世襲制でもいんじゃない?なんて論争を思い起こします。そもそも江戸時代の身分制度が明治になってどうなったか?と考えると徳川家から天皇家へと姻戚利権が引き渡されたんじゃ?なんて思います。いわゆる、薩長閥の末裔が既得権益を死守しようとしているのが現代日本の一面ではあるかと思います。これだけじゃうまくくないんで戦後は一貫して学歴信仰による平等なんて信仰が流布しました。源氏の末裔であろうという武家社会から天皇家の親戚という社会へというのもカーストそのもののようではあります。家柄、血筋、見栄、世間体、なんてものを尊ぶ日本社会の風習はなかなか根深いものがあるようです。日本人のブランド好きなんてのもこんな歴史から来るのでは?なんて思います。ヒンズー教ではカーストは上位ほど清浄で下位にいくほど不浄とする穢れの思想があり各カーストはそれぞれ自分のカーストを穢れから守る努力をする。そのため他のカーストの人と食事をすることや下位のカーストの人から食べ物や飲み水を受け取ることは禁じられている。結婚は原則として同じカーストの間で行われる。職業はカーストに固有のもので世襲制であるためカーストの名前と職業名が同じものが多い。しかし,同じカーストで異なる職業の者もあるし,農業はどのカーストにも開かれているなど厳格に固定していないものもある。特に伝統的な経済関係が壊れてさた現代では必ずしも固定的ではない。 部落の住居もカースト毎に住み分けられ,環境の良いところから順に上位のカーストによって占められて下位のカーストの人は村の周辺部や環境の悪い部落にかたまって居住することになり,異なるカーストが同一地域に住むことはない。 日本の江戸時代までの武士と町人(士・農・工・商)とか,明治になっても華族・士族・平民などの身分差別のあったことを考えれば理解し易い。民主化されたはずの現代日本でもまだ皇族の言葉が残り,特別な敬語が使われている。 ヒンズー教では行為によってさまざまな姿に生まれ変わる輪廻の思想があり、人がそれぞれのカーストに生まれてさたのは前世の因縁であり、現在のカーストの職業に専念し、来世の生まれ変わりに幸福を期待する宿命観がある。この輪廻思想によってカースト社会が維持されている。政治的にはカースト制は為政者にとっては極めて好都合でヒンズー王国の支配階級はカースト制を温存しその上に君臨してきた。 http://www.pokhara.jp/pokhara/nepal/nepal_06.htmこういったインド社会の影響を日本社会はかなり受けてるんじゃ?なんて思うのですね。日本にある被差別部落を海外ではゲットーと呼ぶようです。こういった問題を俯瞰するには↓のサイトなどが良いかもしれません。http://wiki.blhrri.org/jiten/index.php?%A1%F6%EC%CD%CC%B1戦争という事象を追うと必ず差別という現象にぶち当たります。そして差別という事象を追っていくと宗教社会という問題に行き当たります。てなことを考えてると宮沢賢治の言葉などを思い起こします。おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事もつらい もっと明るく生き生きと 生活をする道を見付けたい われらの古い師父たちの中にはそういふ人も応々あった 近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である「農民芸術概論綱要」序論 宮澤 賢治こんな考えも霊的ステージを上げるとか修行とかあっという間にカルト的な差別的な何かに変容する危うさを我々は抱えているということのようであります。信じるものは騙され信じじないものは?疑いつづけるのでしょうか?これ以上疑いようが無いいうのを信仰と呼ぶなら科学の実証主義とどこか似ているようですが・・・・科学は科学で新たな狂気を日々創造中であります。その代表格が核兵器や原発であるようです。http://antaios.web.fc2.com/god.htm↑のような歴史を眺めますと大筋では、僕は宮沢賢治の説く「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」という意見に賛成です。少しずつ進化しているようです。良くなったり悪くなったりしながら螺旋状に・・・・・植えつけられた価値観根拠の無い思い込み人と自分を比べる好き嫌い権力を持つ側のの持たざる者への巧みな操作こういった問題を少しずつ解きほぐしつつ我々は宮沢賢治の言うように「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」のかも知れません。雨にも負けず 風にも負けず 雪にも 夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち 欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている 一日に玄米4合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを自分を勘定に入れずに よく見聞きし 分かり そして忘れず 野原の松の林の陰の小さな茅葺き小屋にいて 東に病気の子どもあれば行って看病してやり 西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば行って怖がらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言い 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず そういうものに わたしはなりたい(-∧-)合掌・・・われらは世界のまことの幸福を索ねよう (-∧-)合掌・・・パンローリング 宮沢賢治 05 (雨ニモマケズ)