問題の根っ子
共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に認められることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、またその献身は結局のところ、他者の好意を(ひいては他者自身を)コントロールしようという動機に結び付いているために、結果としてその行動が自己中心的、策略的なものになり、しだいにその他者との関係性から離脱できなくなるのである。(加藤篤志)アルコール依存症は、個人の病気ではなく、家族の関係性の病理であるという認識が生まれたのが1970年代のアメリカの臨床の現場。アメリカの自助グループにおいては早くからこの問題に対する指摘と対処法はあった。家族の自助グループで・・・12のステップと12の伝統だ。依存症者の家族がアルコール依存を嘆きながらも病者の依存心に依存しているという関係性の問題。無意識のうちに、この病気に手を貸してしまっている人びとは、「後押しする人」「イネイブラー」「 enabler」と名前が付けられる。イネイブラー自体を深刻な病理として表す「パラ・アルコホリック」「 para-alcoholic」という言葉が出来る。共依存は、アルコール依存症にかぎらず、現代社会に共通して見られることが発見される。「良い子」、「理想的な家庭」、現代社会の深刻な病理である家族依存症に蝕まれていると・・・・演劇型家族。登校拒否、ひきこもり、過食・拒食症、仕事中毒、アルコール依存症、不幸な結婚生活もこれらの概念でおおよそ解明されつつある。関係性の病・・・・夫婦の病理・・・・親子の病理・・・・家族の病理・・・社会の病理・・・文明の病理・・・・・・・日本人の国民病であるうつ病や自殺の問題の根っ子にこの問題があるかと思う。アルコール依存症という疾病が「嗜癖者との関係にコミットして生きている結果として、自分の生が手におえないようになった人」関係性の病理をあらわす言葉として、「共依存」「 co-dependency」という言葉が発明される。「アダルト・チルドレン」「adult children of dysfunctional families」「機能不全家族のもとで育った子供たちが大人になった状態」という言葉たちもここから派生した言葉たちだ。以下この問題に詳しい精神科医の言葉。「人は他人のまなざしの中で生きざるを得ないし、極端な話、日本全体が他人のまなざしにあわせて生きる社会ですよね。そういう意味では、僕たちはみんなAC的要素を持っていると言えるのかもしれない。」「ACというのは特別なことではなく、ふつうの人のふつうの出来事なんです。ただ、今まで呼び名がつけられていなかったから、感覚的には漠然と感じていても認識されなかっただけなんですね。そういう意味では、現代人はみなACですよ。気づくか気づかないかのちがいだけでね」精神科医・秋山正弘の言葉。こんなことを言う専門家の大部分は共依存症であるという統計結果もアメリカでは発表される。世話好きな共依存症者は、援助職に就くケースが多い。この問題の日本の先駆者である斉藤学や信田さよ子の言葉は以下。「現代社会には、医学用語ではとらえきれない心の病が蔓延している。その病の多くは、きしみ出した社会の価値観が生み出したものにほかならない。ACの人たちを見ていると、この社会のきしみのなかで自己の痛みに気がついた人たちとも思えてくる。」 「この本を書いたのは、一種の危機感があったからです。現代の青年にみられる種々の逸脱した行為を単なる社会現象として捉えているわけではなく、現代社会に通底する病理現象を捉えるためにACという言葉を使っています。ただ、ACは診断のための医学用語でもなければ、人を誹謗中傷するためのレッテルでもありません。親や教師・上司の期待が渦巻く環境で、自らの生きにくさの理由を自分なりに理解しようとする人が辿り着く、一つの自覚であり、自己認識なのです。それは生き方といってもいいでしょう」「ACは医学上の診断名ではない。「私」と出会うためのキーワードだ。ACというのは、理由が分からないまま、生きることに悩んでいる人達にとって、「そうなんだ、自分はそうだったんだ」と気付くような力を持った言葉といえる。 日本の社会では、親たちは世間の評判を極度に恐れながら、完璧主義的な子育てをしたがる。そうした親のマインド・コントロールの中で、家族を支えて生きるのが「いい子」だった。」「ただACはあくまでアイデンティティの問題。自分自身をACと認めてもすべて解決するわけではない。」 「むしろ日本全体が共依存による紐帯で結ばれた不気味な社会ではなかろうか? そこでは個による自立は、存在し難い。」「母子密着が引き起こす対人恐怖症は日本人に特有の自意識の障害だ。歪んだ家族の関係が、知らぬ間に、自意識をボロボロに浸食している。」きりが無いのでこの辺で・・・夫婦の幸福。親子の幸福。個人の幸福。この辺が問題の根っ子に根深く横たわっております。僕自身の人生は、ここまでこれだけに費やされてきたと言っても過言でないほどに・・・・そして、特別な問題でもなんでもなく。ごくごく当たり前に大昔から「あった」そんな普遍的な問題で・・・・僕がクリシュナムルティに惹かれるのは専門家の言葉より遥かに的確に処方箋を書いているからです。「ともかくなぜ私たちは私たちの子供を教育するのでしょうか? それは子供たちが生きていることの全体の意味を理解するのを助けることでしょうか? それとも、単に特定の文化や社会の中で彼が生計を得る準備をすることにすぎないのでしょうか? 私たちが望んでいるのはどちらでしょうか? 私たちは望む{べきだ}とか、何が望ましいかということではありません。そうではなく私たちが親として実際に強く要求しているのは何でしょうか? 私たちは腐敗した社会において、それ自身の内部でも他の社会とも争っている社会において、子供が順応すること、見苦しくない市民であることを望んでいるのです。それは時たまのちょっぴりの愛情、寛容、親切を伴って、残酷で、欲張りで、暴力的で、どん欲です。それが私たちの実際に望んでいることではないでしょうか? 子供が社会にぴったり合わないなら―それが共産主義者であれ、社会主義者であれ、資本主義者であれ―、私たちは子供に起こるであろうことを恐れます。それで、私たちは私たち自身の成功のパターンに順応させるために彼を教育するのです。それが子供が心配になるところで私たちが望むすべてなのです。そしてそれが本質的にいま起こっていることなのです。そして社会に対する、順応のパターンに対する子供のどんな反逆も、私たちは非行と呼ぶのです。 私たちは子供たちを順応させることを望んでいるのです。私たちは彼らの心をコントロールしたい、彼らの行為、彼らの生き方を形づけたい。その結果、彼らが社会のパターンにぴったり合うように。それがすべての両親が望んでいることではないでしょうか? そしてそれがアメリカであれヨーロッパであれ、ロシアであれインドであれ、まさしくいま起こっていることなのです。パターンは少しずつ違っているかもしれませんが、彼らはみな子供を順応させることを望んでいるのです。生きていることの目的は何でしょうか? 私たちはひとりでにそれをいま尋ねています。そして、私たちはなぜそれを尋ねるのかなと私は思います。それは生きていることが私たちにとってほとんど何も意味を持たないからでしょうか? そして私たちはそれがより大きな意味を持つと確信することを期待してこの質問をするのでしょうか? 私たちは自分自身の中でそんなに混乱しているので、どうやって答えを見つけたらいいのか、どちらの道に向かったらいいのか知らないということでしょうか? 私はそれがもっともありそうだと思います。私たち自身の中で混乱しているので、私たちは見て、私たちは尋ねるのです。そして尋ねる中で、見る中で、私たちは理論を発明します。私たちは生きることに目的や生きることの意味を与えるのです。 それで重要なことは生存の目的、意義、意味を明らかにすることではなくて、むしろなぜ心がこの質問を尋ねるのかを見いだすことなのです。私たちが何かを非常に明確に見るなら、それについて尋ねる必要はありません。それでたぶん私たちは混乱しているのです。私たちは権威によって私たちに押しつけられたものごとを受け入れるという習慣の中にこれまでいたのです。私たちは権威が奨励する思考をのぞいては、多くの思考なしに、常に権威にしたがってきました。さて、しかしながら、私たちは権威を拒絶し始めました。なぜなら、私たちは私たち自身でものごとを見いだしたいからです。そして私たち自身でものごとを見いだそうとすることの中で、私たちは非常に混乱します。そういうわけで私たちは再び「生きることの目的は何なのだろう?」と尋ねるのです。誰かが生きることの目的が何であるかあなたに教えてくれて、その答えが満足を与えてくれるなら、あなたはそれをあなたの権威として受け入れて、それに応じてあなたの生を導くかもしれません。しかし基本的には、あなたはなお混乱しているでしょう。質問は、そのとき、生きることの目的は何かではなくて、心はそれ自身からそれ自身の混乱を取り除くことができるかどうかです。心がそれをすることができ、そしてするなら、そのとき、そのもう一方の質問を決して尋ねないでしょう。 しかし私たちの大部分にとっての困難は、私たちがまったく混乱しているということを完全に理解することです。私たちは単に表面的に混乱しているだけであり、混乱によって汚されていない心のより高い部分があるのだと私たちは考えます。心の全体が混乱しているのだということを完全に理解することは非常に困難です。なぜなら私たちの大部分は、私たちを指導し、形作り、導びくことのできる心のより高い部分があるということを信じるように教育されてきたからです。しかし確かに、これは再び心の発明なのです。 混乱から自分自身を解放するためには、ひとはまずはじめに自分が混乱しているということを知らなければなりません。自分がほんとうに混乱しているということを見ることが浄化の始まりではないでしょうか? しかしそれは自分がまったく混乱しているということを見て自分自身に認める深い知覚と大きな正直さとを必要とします。自分が全く混乱しているというひとを知るとき、ひとは浄化を求めないでしょう。なぜなら浄化を見つけるための混乱した心の側のどんな行為もただ混乱を増すだけだろうからです。それはかなり明らかではないでしょうか? 私が混乱しているなら、私は本を読んだり、見たり、尋ねたりするかもしれません。しかし私の追求、私の尋問は私の混乱の結果です。したがって、それはさらなる混乱につながることができるだけなのです。であるのに反して、混乱しており、そしてそれが混乱していることを本当に知っている心は、追求の、尋問の動きをしないでしょう。その混乱に静かに気づいていることのまさにその瞬間の中に、浄化の始まりがあるのです。1956年 ブリュッセルでのクリシュナムルティの講話より我々の病は深く根深く進行中であります。しかし、あちこちでルティの説く浄化も始まりつつあるようです。自分の傷や痛みと向き合い、わかりあえる他者に話し共感し共有すること。僕の仕事はこれなんですが・・・・たやすい仕事ではありません。でも結局は自身のためなんだなあ・・・と思いつつ感謝♪他人様の雑多で困難な問題に関わりつつ自身の問題の根っ子があらわになってきましから・・・・(-∧-)合掌・・・感謝♪