永遠の歌
一なるものを信じる前略おお! あの時が再来するだろう! かって来た時が!まだ、人は全ての役を演じさせられてはいないのだ!白日の下で、偶像を破壊することに疲れて、あらゆる「神々」から自由なのだから、人はよみがえるだろう。そして、人は天から来たのだから、天を探求するだろう!…肉体の粘土の中に、人は「神」からすべてを受け継ぐ、理想が、不屈にして永遠なる思惟が、昇りつづけ、その額の下で燃えるだろう!そして、あなたが、人が全ての地平を計るのを見る時、あらゆる恐れから自由で、古い束縛をあざ笑う者よ、あなたは、人に聖なる「贖罪」を与えに来るだろう!…大いなる海に抱かれて、壮麗にして光り輝く、あなたは、永遠の「微笑み」の中で、永遠の「愛」を広大な「宇宙」に放ちながら、現れるであろう!世界は、大いなるキスのおののきの中で巨大な竪琴のように鳴り響くだろう!――「世界」は愛に渇いている、あなたは世界を癒しに来るだろう!おお! 「人」は自由で誇り高いその頭を起こした!そして、原初の美の不意の光が肉体の祭壇の中の神を鼓動させた!現在の善に喜んで、苦しめられた悪に青ざめて、「人」は全てを測りたい、――そして、知りたい! 「思惟」という、あまりにも長い間押さえつけられていたあのメス馬は、突進する!そして「答え」を知るだろう!思惟のメス馬が自由に跳ね回れば、「人」は「信仰」を持つだろう!――なぜ、青空は沈黙し、宇宙は計り知れないのか?なぜ、黄金の星々は数知れぬ砂のように群れ集うのか?もし、昇り続ければ、その彼方で人は何を見るのか?ひとりの「羊飼い」が、恐怖の空間の中をこの世界中のゆっくり歩く巨大な羊の群れを導いていくのか?そして、広大な天空に抱かれたあの世界全てが、ある永遠の声に震えるのだろうか?――そして、「人」は、見ることができるのか? 「我信ず」と言うことができるのか?思惟の声は、夢想より優れているのか?もし、人がとても早く生まれ、はかない命だとしたら、人はどこから来たのか? 人は、「胚」と「胎児」と「芽生え」の、深い「太洋」の中の巨大な「坩堝(ルツボ)」の底まで沈みバラの中で愛し、麦の中で信じるために、「母なる自然」が、人を命ある物として生き返らせるのだろうか?…ぼくたちは知ることができない!――ぼくたちは無知と堅苦しい妄想のマントに打ちひしがれている。母の陰門から落ちてきた人類というサルだ、ぼくたちの青ざめた理性が、ぼくたちに無限を隠している!ぼくたちは見たいのに!――「懐疑」がぼくたちを罰する!陰鬱な鳥、懐疑が、ぼくたちをその翼で打つ…――そして、視界の果ては永遠に逃げてゆく…後略アルチュール・ランボー母さんがぼくを殺した父さんがぼくを食べてるきょうだいたちはテーブルの下に座ってぼくの骨を拾ってるそして冷たい大理石の下に埋めたマザーグースより私が地上を去るとき, 別れの言葉に,こう言って逝かせて下さい---「この世で私が見てきたもの, それは類なく素晴らしいものでした」 と。「光の海に咲き誇る この花の秘められた蜜の甘さを 私は味わった。こうして私は祝福されたのです」......「無数の形から成るこの劇場で,私は, 自分の役を演じてきました。そしてここで, 私は形のないあの方の姿を見たのです」タゴール「死生の詩」死と再生とは人類の永遠のテーマであり、世界中の神話によって取り上げられ宗教の源泉となる。死にたくない、蘇りたいという、人間の根源的な衝動が、来世での再生と結びつき宗教が生まれた。来世という彼岸と現世という此岸。彼岸の狭間で永遠を思い願う人という生き物。中国人は「国敗れて山河あり」と人の命と世の儚さと自然の永遠性を簡潔に記しました。散る花はまた来む春も咲きぬべし 別ればいつかめぐり会ふべきこの歌は西行の『山家集』より散る桜の花に死を見てそれが終わりでなく来年も咲くという再生の中に人の命の儚さと永遠を詠みました。桜こそ思ひ知らすれ咲きにほふ花も紅葉も常ならぬ世を この歌は源氏物語に出てくる薫の歌です。こんな和歌を眺めていると日本人の感性というのは鋭いのだよなあ感心します。そういえば最近こんな歌が流行りましたね。私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 眠ってなんかいません千の風に 千の風になってあの大きな空を 吹きわたっています(-∧-)合掌・・・ランボー詩集改版タゴール詩集京都山家集の風土と風景