安心
昨日は、岩見沢からきんちゃんが来る。きんちゃんは、福祉施設でコーヒーを焙煎する仕事に奮闘する身体障害者だ。自立支援法を筆頭に急激な社会の移ろいが様々な所に様々な影響を及ぼす。色々な話をみんなでする。そうすると安心する。必要なことは、それだけかなあ・・・・と今の仕事をやっていて思う。小泉構造改革により生まれた自立支援法は半分くらい良い部分もある。障害当事者の就労や社会参加や人間的な自立という意味においてしかしながら・・・・・これだけ競争が激しくなる一方の現代社会でみんなが磨り減り、燃え尽き、バテバテなのだ。この競争や不安の正体は・・・・となれば。「モモ」を書いたドイツの作家であるエンデは,「個人の価値観から世界像まで,経済活動と結びつかないものはない。問題の根源はお金にある。」と語る。そしてエンデの遺言―「根源からお金を問うこと」 において。「私は、問題点の中心は、金融システムにあると信じます。1971年、ニクソン大統領がドルを金本位制から切り離したときから、私たちは歴史的に前例のない時代を生きているのです。現実的な経済に対して、安定させる何の保証もない通貨の時代が始まり、その不安定な通貨が世界を混乱させているのです。今日の不況は、1930年よりもひどいかも知れません。当時の不況は、アメリカやヨーロッパに限定されていました。われわれが今持っている世界規模の経済システムこそが問題なのです。異なる通貨システムは、異なるタイプの関係性を築くと思います。私たちが常識だと思って使用している通貨は、国や企業に、競争を強いる性格を持っています。金融システムが競争を前提として機能しているのです。もし私が、あなたと協力関係になりたかったら、実際にそれを築くような別の通貨が必要なのです。目的に応じて、道具は使い分けるべきです。ですから私たちには、複数のお金が必要なのです。経済の未来は、私たちがどんな関係を持ちたいかで決まります。世界中で、何千も使われ始めた地域通貨は。その関係性を回復するための一つの新しい道具なのです」「今日のシステムの犠牲者は、第三世界の人々と、自然に他なりません。このシステムが自ら機能するために、今後も、それらの人々と自然は、容赦なく搾取され続けるでしょう。このシステムは、消費し、成長し続けないと機能しないのですから。成長は無から来るのではなく、どこかがその犠牲になっているのです。歴史に学ぶものなら誰でもわかるように、理性が人を動かさない場合には、実際の出来事が、それを行うのです。私が作家としてこの点でできることは、子孫たちが同じ過ちを冒さないように考えたり、新たな観念を生み出すことなのです。そうすれば、この社会は否応なく変わるでしょう。世界は、必ずしも滅亡するわけではありません。しかし、人類はこの先、何百年も忘れないような後遺症を受けることになるでしょうでしょう。人々はお金を変えられないと考えていますが、そうではありません。お金は変えられます。人間が作ったのですから」こういったマクロの問題と我々の日々の暮らしがいやがおう無く密接に連動し、例えば豊かな漁師町に,貨幣経済の導入と一緒に銀行ローンもやってきた。漁師たちはローンで大きな船を買って,効率が高い漁法を採用。そのおかげで,ローンを返すためにたくさん魚をとり,結局最後には魚が1匹もいなくなるというような話が世界中で進行中である。未来を食いつぶす現代のシステムにみんなが怯えて不安なのだ。「『人間にとってよいことは、世界にとっても当然よいことだ』という生き方は間違いであることが明らかになった。私たちは生活様式を変え、『世界にとってよいことが、人間にとってよいことだ』という正反対の生き方をしなければならない」と詩人ウェンデル・ベリーは言う。「僕は暮らしや知識が機械からもたらされるとは思っていない。機械経済が人の精神に火をつけたんだ。そして、どの生物もその中で燃えている」「僕は生まれたときのように愛に包まれて死ぬだろう。貧乏でも愛で終わる人生を生きたい。僕は機械が嫌いだ。僕は機械を使うことを控えているが、それは死にはしない。けど、いつかはなくなるだろう。経済は盗みや高利貸しや浪費や破滅ではなく、モノを大事にする倹約に基づくべきなんだ」「親愛なる読者よ。君とわかちあいたい。僕は古くさい男だ。死ぬリスクがあったとしても僕は自然の世界が好きだ。自然界に借りを返し、自然との絆を保つ限りは、僕は人の世界も好きなんだ。僕は天の約束が好きだ。僕の目指すのは、こうした贈り物に感謝し、名誉をお返しできる言葉だ。きざな偽りには縁なき言葉だ」であれば・・・・・・・生き方を変えることでしか安心は無いのだろうなあ。感謝する心には、安心があるのだし。地球へのやらずぶったくりの環境破壊システムの変革。それには、経済成長より人間の心の成長が必要なのだろう。子供のような幼稚な大人しかいないのだし・・・・・・・・そして、成長には愛と共感が必要なのだ。さらにウェンデル・ベリーは『アメリカの不安』のなかで次のように書いている。「専門化という法則の下で起こることは、社会がますます複雑化になり、解体していくことである。組織化が進めば進むほど秩序は失われ、コミュニティーは崩壊する。素材と過程、原則と行動、理想と現実、過去と現在、現在と未来、男性と女性、肉体と精神、都市と農村、文明と未開、成長と衰退、生と死、などの関係を成り立たせている認識や仕組み、制度が失われるからで、それはまさに個人の人格からこうした関係に係る責任意識が失われるのと同時である。 唯一、未来を保証するものは、現在の責任ある行動である。将来の想像される需要が現在の誤った行動を正当化するための口実として利用されるなら、えてして我々はそうしがちだが、それは現実を悪用し、かつ未来の可能性を狭めるものである。 責任ある利用が規定され、勧められ、組織にある程度要求されたとしても、それが組織によって実施されたり、成し遂げられることはない。組織による効果的な執行はあり得ない。世界の利用の仕方は最終的には個人の問題である。世界は多くの人びとの我慢と配慮によってのみ、健全な状態を維持することができるのである。」だから「自由とは責任を意味する。だから人は自由を恐れる」とバーナード・ショウは言った。昔の言葉に安心立命(あんしんりつめい)という言葉がある。天命に身を任せて心を動かさず、煩悶もないこと。いかなる場合にも心が落ち着いていること。 「安心」は心配がないこと。「あんじん」とも読む。「立命」は、天から与えられたものを全うすることで、天命に身を任せて心を動かさず、生死や利害に惑わされずに超然としているという意味。「あんじんりゅうみょう」「あんじんりゅうめい」とも読む。 こんな風な境地に至れないとしても人間が望む事はいつも一緒なのだろうなあとしみじみと思うのであります。ウェンデル・ベリー は、「9・11テロに寄せて」で、こう述べている。「私たちはいま、のっぴきならない選択を迫られている。選択肢の一つは、ひどく脆弱で長い通信ラインと供給ラインによって結ばれ、企業間の制限なき『自由貿易』からなるグローバル経済システムを推進することである。ただし今回の事件で、そうしたシステムを守るには、非常に費用のかさむ世界規模の警察力が必要だとわかってきた。…それだけ大規模な警察力は各国市民の自由とプライバシーを侵害しないかぎり効力は発揮できまい」。 「いっぽう私たちは、あらゆる国や地域が生命を支えるための産品を地元で自給できるようにすることをめざし、分散化した世界経済を推進することもできる。…地元のニーズを満たしたあとの余剰分を取り引きするという方向性をもつだろう」 無償の地球資源の収奪を続け値段をつけ売り買いし、まるで自らの足を食べる蛸のような状態では、安心など望めないのだよなあ・・・・・それでも人が安心を望む限りは、新しい時代への変革は、弱いところから小さい所から始まりやがては、大きな波になるのだろうなあ・・・・なったらいいなあ・・・・なんて思うのでありますね。(-∧-)合掌・・・