からっぽの叡智
見ようとしても見えない。これを「夷」と呼ぶ。 聞こうとしても聞こえない。これを「希」と呼ぶ。 触ろうとしても触れない。これを「微」と呼ぶ。 この三つのものは追及のしようがない。なぜならそれは全く同じものだからだ。この三位一体のもの、これが「道」である. 茫漠としているが、上の方は明るくないし、下の方は暗くもない。 ただぼんやりとして形容のしようがなく、形のない状態に戻っている。この姿なき姿、形なき形を「恍惚」という。迎えてもその前が見えず、従ってもその後ろが見えない。 これが昔から続く「道」の姿で、今の「有」を支配し、これによって万物の始まりを知ることができる。これを「道の原理」という。車の輪は三十本のスポークが一つの車軸に集まり、この輪の中に空間があってこそ車輪としての働きが出来る。 泥土を捏ねて器を作り、器の中に空間があってこそ器としての働きをする。戸口や窓をうがって部屋を作り、その中の空間こそが部屋としての働きをなす。 このように「有」が人に与える利は、空間という「無」があってこそなのだ。人が生きているとき身体は柔軟だが、死ねば硬直する。 草木の生きているときは枝や幹は柔らかく脆いが、死ぬと枯れて固くなる。 ゆえに堅強なものは死に、柔弱なものは生きる。 この事から軍隊は強大になればいつか敗れ、枝も強大になれば折れる。つまり堅強さが劣勢となり、柔弱さが優勢となるのだ。世の中でもっとも柔らかいもの(水)が、もっとも堅いものを制圧している。形のない物は(岩盤のような)隙間のない所にも入っていけるからだ。 私はこれをもって「無為」の益を知る。「不言」の教え、「無為」の益は、天下でこれに及ぶものはないのだ。他人を理解できる者を「智」といい、自己を知るものを「明」という。聡明である。他人に勝つ者を「力」があるといい、自分を克服出来る者を「強」という。真の強者である。満足を知る者は富み、努力する者を「志」があるという。よりどころを失わない者が永続し、死んでも「道」の精神を保っている人は亡びず、これを真の長寿者という。人は生まれたら必ず死に向かう。長生する人は十分の三あり、早死する人も十分の三ある。そのままなら生きていたのに、へたに動いて死ぬ人も十分の三ある。これはなぜか。生への執着が余りにも強いからだ。 かつて聞いた。「善く生を全うする人は陸地を歩いても犀や虎に会わず、戦場でも殺される事はない」と..,その人には犀も角を使えず、虎も爪を使えず、敵兵は武器も使えない。これはなぜか、彼が生に執着しないため、死の境地に入る事がないからだ。老子は、上記のような無を説き。釈迦は、空をを説いた。老子は、無を説くことで有を説き。有を説くことで無を説いた。釈迦は、迷いや煩悩という言葉を用いて、これらは、空なのだ。無いのだと。ありもしないものに振り回され苦しむ人間を救済しようとした。からっぽの叡智。とでも言えば良いのだろうか?(-∧-)合掌・・・無・・・空・・・・老子・荘子の言葉100選