信じないという信念
「この世界は危険で悪意に満ちている」「私は無力で傷つきやすい」「私は生まれつき人に好かれない」これらの言葉は、「見ない、信じない、感じない」とアメリカのアルコールや薬物依存症の臨床の現場で抽出されました。アルコール依存症の子供たちと接していた黒人女性ソーシャルワーカー、クラウディアブラックによって発見された事象です。冒頭に掲げた3つの信念から、さまざまな感情や行動が生じるというのですね。たとえば、「世界は危険で悪意に満ちている」から他人に弱みを見せるわけにはいかず、常に緊張と不安を強いられるし、緊張すればするほど危険の兆候に気づきやすくなるため、「世界は危険で悪意に満ちている」という信念が強化されてしまう。さらに世界を警戒するあまり、人間関係には慎重になり、困難に直面しても問題の解決を避けようとするので、「私は無力で傷つきやすい」という信念も弱まることなく存続してしまう。おまけに、「生まれつき人に好かれない」から人が本当の自分を知れば見捨てられると思ってしまうため、他人とうまく関わることもできない。僕の仕事はこれらの病理を抱える人々との関わるということです。僕自身もまた少なからず同じ問題を抱えて生きてます。基本的にどんな人が精神病になってもおかしくない時代と社会に僕らは生きています。いわゆる、成功者と呼ばれる人やその家庭に問題を抱える人が多いなあとか、国と国との関係だとか様々な事に上記の問題が当てはまるなあなどとも思うのですね。そして物凄い勢いで世界を席巻してるような感じもします。お酒を飲めば暴れるお父さん、殴られるお母さん止めに走れば一緒に殴られる子供達。毎日のように繰り返される親からの暴力、学校でのいじめなどが続くと、これらの暮らしの中でこの世界に悪の組織があって僕はその組織に毎日見張られ苦しめられてるなどと考えるようになったりもします。そして何も信じられなくなってしまいます。体裁や見栄ばかり気にする親。親から好かれたい愛されたいために親の価値観を取り込む子供。パターンもバリエーションも様々なのですが。共通して言えるのは人間や社会に対する不信感です。別の例えで言えば何でも言う事を聞いてくれて何でも買ってくれる親や祖父母。こういう環境で育てられる子供は万能感をずっと持つようになったりもします。世界は自分の思うとおりになるという信念を抱えます。しかし現実世界は全然そんなに甘くないので簡単に挫折や絶望に陥り自らの世界に退行し引きこもります。自らの感情を表現する言葉を持てない場合、暴力という表現を取ります。そして、やはり何にも信じられなくなります。最近流行った「モンスターペアレンツ」という言葉の背景には、わが子の言うことを聞きすぎた親なんて姿が浮かびます。信じないというのもひとつの信念ですし。我々が信じてると思っている事象もよくよく考えていくと非常に危うさを秘めております。信じる信じないの差は、薄皮一枚ほどの差なのかも知れません。で以下のような言葉たちを眺めたりします。「信念は恐怖や伝統から生まれる。二千年あるいは一万年にわたるプロパガンダこそは、儀式、教義、信念といったものに包まれた、宗教的な言葉の構造の正体である。そのとき言葉はきわめて重要になり、そうした言葉の反復が、信じやすい人々を催眠状態に陥らせるのである。信じやすい人々は、与えられるものの正邪善悪におかまいなく、常に進んで信じこみ、受け入れ、従おうとする。信ずる精神は探究心とは違っており、それは公式や原理原則の限界を出られない。それはちょうど柱につながれた動物のように、ロープの範囲でしか動きまわれないのである。」「政治家や僧侶、偉人と呼ばれる人々は常に各人の公式に従って行動し、他人をその公式に従って生きるように強制しようとしている。そして思慮のない愚かな人々は常にかれらの言葉や約束、希望によってがんじがらめにされてしまうのである。公式の持つ権威の方が、あるがままのものへの愛よりもはるかに重要性を帯びるに至る。それゆえ権威は、それが信念や伝統の権威であろうと、あるいは道徳と呼ばれている習慣によるものであろうと、どれも邪悪なのである。」クリシュナムルティの瞑想録より「どうしてだろうと」 まど みちおどうしてだろうとおもうことがあるなんまん なんおくねんこんなに すきとおるひのひかりの なかに いきてきてこんなに すきとおるくうきを すいつづけてきてこんなに すきとおるみずを のみつづけてきてわたしたちはそして わたしたちの することはどうしてすきとおっては こないのだろうと「競争にとりつかれているわたしたち」自分を振り返って反省してみるとき、あわれみではなく、競争が私たちの人生の一番の動機であることに気づくはずです。私たちはあらゆる形の競争の中にどっぷり浸かっています。私たちの自己意識は自分を他者と比べたり、自分が認める他者との違いに基づいています。「わたしはだれなのか」という質問が、この世界の様々な権力者ー教育関係者、教会の代表者、職業安定所の職員、体育の指導者、工場の監督、テレビやラジオのアナウンサーなどに向けられるなら、「あなたが成し遂げた人よりも優れた結果そのものがあなたです」という答えがたちどころに返ってきます。私たちが認められたり、誉められたり、あるいは拒絶されたり、蔑まれたりするのは、私たちの様々な違いや特異性によるのです。多かれ少なかれ、私たちは頭がいいか、実際的か、強いか、早いか、器用か、顔立ちがよいかなど、これらは私たちが誰と比べられるか、また、誰と競争しているか、その相手によって決まってくるのです。あらゆる家庭問題、人権感の紛争、階級闘争、国内や国際間の論争において、このような現実、あるいは想像上の違いが中心的役割を果たしている事を認めるのにそれほど考察を必要としないでしょう。事実、人と人の間や集団と集団の間だの違いをはっきりさせることに、私たちは多くのエネルギーを費やしています。こうして私たちはお互いの間に距離を置いて自分たちを位置づけているのです。私たちは自分が獲得した「賞」を懸命に守ろうとします。結局、もし私たちが他者と自分を区別する何らかの特別なものを誇らしげに示すことができないとしたら、自分はいったい何なのでしょう?人間関係の隅々にまで浸透しているこの競争心は互いが完全に連帯するのを妨げ、私たちが同情し合うのを邪魔します。「コンパッション(あわれみ)―ゆり動かす愛 」 よりヘンリー・J.M. ノーエン (著), ダグラス・A. モリソン (著), ドナルド・P. マックネイル (著) 女子パウロ会死ぬよりも前に、渇愛を離れて過去によって現在を言い訳しようともせず目の前のことにたいしても準備せず未来を思いわずらうこともない そのような人は、怒らず、怖れず誇らず、後悔するような悪行をなさずよく思慮して語り、そわそわすることもなく沈黙して暮らすことができる いまだ来ないものを願い求めることもないしすんでしまったことを憂えることもないしすべての感覚対象から遠ざかり、離れるので思考に支配されてしまうことがない このように依りかかるもののない人はダルマ(法)を知っていて他に依存せず有への渇愛も存在しなければ無への渇愛も存在しない 釈迦(-∧-)合掌・・・有るようで無いし、無いようで有る♪