カテゴリ:歴史
揚州には隋の煬帝が行宮をつくり、中国の南北を結ぶ大運河の基地として繁栄した。
鑑真和尚のいた大明寺が存在する。遣隋使、遣唐使もココ揚州に来ていた。 宋代に揚州にやってきたマホメット16代目の子孫ブハディンの墓もある。 元代にマルコポーロはこの都市の行政官であったという。 明、清代には、国家の重要な収入源であった専売制の塩の役所である塩運使署が置かれ塩の大集散地として賑わい、天下の富豪が集まった。 だが、太平天国の時に廃墟となってからあとは歴史の表面から姿を消し、ひっそりとした地方都市となってしまった。 揚州三把刀 揚州人は三種類の刃物を扱う事にかけては天才であるとされている。 「床屋の刃物」と「裁縫の裁断用の刃物」と「料理包丁」である。 ここは、床屋の数が異様に多い。先日の新聞に載っていたが上海の床屋の80%が揚州人の経営しているお店だとの事だった。見知らぬ土地で裸一貫から身を起こす時、最初に始める商売は中華料理屋か、仕立屋か床屋である。 「個人西ノカタ黄鶴楼ヲ辞シ、煙花三月揚州ニ下ル。」 ひとかどの人物なら、訪れてみないと肩身の狭い所で、隋、唐代以来、造園が続けられた痩西湖畔は、富豪が争って別荘を建てる天下の一等地とされていた。 今でもその名をとり、花が咲く観光シーズンの4月になると揚州市上げてのイベントとして「煙花三月」が行われる。海外企業の招致も同時に行われる為、世界中から観光客が訪れる。日本人観光客は、800人/月ほど来ているだそうだ、その為中国国際旅行社にも、日本語のできるガイドは常時4人は居るといっていた。 「揚州之鶴」 古来、人々が集まって各各志を言う。ある人は曰く、揚州の役人になると役得が多く、多くの財貨を得ることができる。またある人は曰く、鶴に乗って上昇するような大金持ちは、他の1人が腰に20万貫の大金を腰に縛り鶴に乗って揚州で遊ぶにかぎるとされた。 「揚州夢」 唐の杜牧は若い頃、揚州の繁華街で遊んだ事を、「十年一覚揚州夢」と懐かしむ詩を作った。以来、「揚州夢」とは昔の栄華を夢にたとえる言葉として使われるようななった。 しかし、今では揚州そのものが昔の繁栄は夢のまた夢とする街になってしまった。 「揚州美人」 出張で北京や上海に行くと、良く中国人から、 「揚州は美人が多い事で有名ですね」 と言われる。 これは、昔のイメージが未だに残っているからだ。 昔は富豪が豪遊していた事を聞くと、近くには可愛い女の子が欲しい。 また、お妾さんも当然居たであろう事は理解できる。 中国中から綺麗な女の人を呼び集めていた事も事実だろう。 本当の所は、「揚州人は美人が多い」という事ではなく、「揚州は中国中から美人を連れてきているので、美人が多い」と言うことではないだろうか。 現に綺麗な人も居るが、本当に綺麗な人は北京や上海に出稼ぎに行ってしまうだろうと思う。絶対数では都会に美人(モデルも含めて)が集まるものだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年11月17日 12時17分42秒
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